「ハリストスが復活しなかったら、わたしたちの宣教は無駄であるし、 あなたがたの信仰も無駄です。
……ハリストスは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」
(コリント人への第一の手紙15:14,20)
キリスト教の教える「復活」というのはちょっと…という意見をよく耳にします。また、復活は弟子達の作り話、もしくは思いこみである、とハリストスの復活に異論を唱える人は、今も昔も存在します。中には、復活というのは人々の心の中に生き続けているという意味のことであって、肉体を伴っての復活ではないという考えもあります。確かに、一旦十字架刑によって死に、墓に葬られた人間が三日目に復活して、食事をし、一定期間皆と共に過ごしたなどという出来事は、通常の理解を超えています。
福音書を読むと、弟子達もハリストスの復活を素直に受け入れたとは言えず、現代人さながら常識や理性を頼りとして紆余曲折する姿が示されています。フォマに至っては、「あの方を見なければ、触れなければわたしは決して信じない(ヨハネ福音書20:25)とまで言い切りました。しかしハリストスの、その身を挺した死からの復活という現実の差し出しに、弟子達の疑問はやがて、喜びへと変わりました。復活したハリストスと出会ったという衝撃的な体験が、その後の宣教活動の原動力となったのです。
復活祭から昇天祭にかけてのこの時期、私達は、
「ハリストス死より復活し、死をもって死を滅ぼし、墓にある者に生命を賜えり」
という復活讃詞を歌いますが、これは、何もただの願望で唱えているのではありません。復活したハリストスと出会い、生活を共にした弟子達の喜びの体験が、教会の歴史の中で脈々と伝えられてきているのです。
今日の私達は、その教会という「ハリストスの体」「新たなる神の民」の交わりによって主のよみがえりの体である御聖体を受け、人間本来の姿を取り戻します。神聖神°と主の御言葉の導きにより、私達は希望を持って生きることが出来るのです。そして私達は、この希望を自分達の胸にとどめておくばかりではなく、多くの人と分かち合う役割をも担っていることを確認したいものです。
ハリストス復活!!