「神はその民に心をかけて下さった」(ルカ7:16)第二十主日福音
 
 多くの日本人の中には「死は汚れ」「不浄である」という考えが根強くあるようです。例えば仏教の葬式では、死者は祭壇の向こう側へ置かれます。また葬式から帰ってくると塩をまいて清めを行うところも多く見受けられます。そう考えてしまう背景の一つとしては、人間は死んだ後どうなるか分からない、恐ろしい、得体の知れないものであるからという理由を挙げることが出来るでしょう。
 イイススはナインという町へ行かれました。イイススが町の門に近づくと、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところでした。この母親はやもめでした。主イイススはこの母親を見て憐れに思い「もう泣かなくて良い」と言われ、近づいて棺桶に手を触れられて「若者よ、起きなさい」と言われました。するとこの若者は起きあがって話し始めました。イイススは母親にこの息子をお返しになりました。人々はみな怖れて神を讃美し「大預言者が我々の間に現れた」と言い、「神はその民に心をかけて下さった」と言いました。旧約の律法にも「死は汚れである」「不浄なものである」という考え方があり、当時のユダヤ人たちもそう考えていました。ですから葬式の列に近づいて、遺体に触れるということは、いわば非常識な行動とも取れるわけです。旧約時代はハリストスが来られる前の時代です。天国が私たち人間に確実に示されるのは、主イイスス・ハリストスの到来を待たなければならなかったわけです。先ほどの日本の仏教などの習慣についても、多くの日本人が死は汚れである、忌まわしいものであると考えると述べました。よくお葬式では「忌中」と言う言葉を使います。忌まわしい中にあるという意味です。死は忌むべきもの、避けるものであると考える根拠には、不安や恐れのほかに、天国のこと、来世のことが示されていないことも挙げられるのではないでしょうか。
 ではハリストスはどうだったか?「悔い改めよ、天国は近づいた」「心の清いものは幸いなり、天国は彼らのものなればなり」と、山上の説教で語られたように、私たちに天国とは何か、どういうところであるかを示して下さいました。また「神の国は次のように喩えられる」という、耳慣れた言葉でしょうが、婚宴や種まき、家を建てること等を通してたとえ話をされ、天国を示して下さいました。まさにハリストスが、私たちの考えるような汚れに染まらず、死と悪と罪に支配されたこの世を、私たちを清めて下さるのです。いまや死に支配されないお方、死に打ち勝つお方が、私たちの住むこの世に来られたのです。
この話の箇所で、驚いた人々が「神はその民に心をかけて下さった 」とありました。確かにこのやもめの母親に、この若者に信仰云々については書かれておりません。この話の直前にある、7章1節からの、部下の難病をハリストスに癒して頂いた百人隊長も、ユダヤ人ではなく異教人でありました。このように、本来の信仰を持っていたとは言えなかったそのような人々にも、また残念ながら宣教が行き届かない人々にも神様は直接目を留めて下さり、無条件に、この場合やもめの母親を、ただあわれに思い、救って下さるわけです。神様の憐れみは量りがたい、私たちの想像を超えるものであります。
 ただ注意しなければならないことは、私たちは神様の憐れみに対し、例外的な働きかけを期待し過ぎてはならないということです。あくまでも神様が寛容で忍耐強く一人でも多くの人がご自分の元へ来られるよう望んでおり、決して見捨てないということであって、他の宗教にいるからそれで良いと言うことではありません。何故ならハリストスは一方で「誰でも私を通らなければ天国に行くことは出来ない」と言われました。これは洗礼を受けなければならないことを意味しており、そうでないと依然滅びに身を委ねた状態にあるといってもいいわけです。身近で洗礼をまだ受けていないとしたら是非とも勧めなければなりません。
私たち信者は、もはや汚れに怯えることはありません。主イイスス・ハリストスが教会という「ハリストスの体」を通して私たちに触れて下さり、その罪の赦しの血と、よみがえりの体を、命の糧として与えて下さいます。またハリストスはこう宣言しております。「あなたがたはこの世で悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」 (イオアン16:33)