「今、童貞女は永在の主を生み、地は載せ難き者に洞を献ず、神の使いは牧者と共に主を讃め歌い、博士は星に従いて旅す、けだし我らのために永久の神は嬰児として生まれたり」
(降誕祭コンダク)
毎年、クリスマスシーズンは大変な賑わいです。

多くの人々も、この無意味な祝い方にどこか違和感を感じてはいるものの、本質を見いだせないまま過ごしてしまいます。私たちも、ともするとこの祭日の真の意味を忘れる危険性があります。この賑わいの中ですっかり主の居場所は狭められてしまっている、といってもよいでしょう。
実は2000年前のベツレヘムも同様でした。
皇帝より住民登録の勅令があり、イオシフはダヴィドの子孫であったので、ダヴィドの町ベツレヘムに行くことになりました。そのためベツレヘムは大変な賑わいを見せていました。マリヤとイオシフ(ヨセフ)は宿を探しましたが、泊まることが出来ず、身ごもっていたマリヤは、人里離れた家畜小屋で主イイススを生むこととなりました。
幸運にも、記念すべき主の降誕に立ち会えたのは、羊飼いと東方の三博士たちでした。一方でベツレヘムの町の人たちは、この救世主の降誕に誰一人として気付く人はいませんでした。
主は静けさの中に生まれました。賑わいの中に生まれることを望まなかったのです。生まれた場所は、家畜小屋として使われている洞窟でした。
「主はもっと華々しくお生まれになったほうが良かったのでは?神様なんだから」と、思うかもしれません。しかし主は、ご自身の降誕を人々に押しつけようとはしませんでした。主は、ご自身の誕生を私たちに、静かな心で「探し求めること」を望んでおられるのです。
ロシアの主教、ザドンスクの聖ティーホン(1724〜1783)は「イイススは賎が家を侮らないことを、私たちは知っています。心を込めて招くなら、徴税人の家にさえも主は行かれます。…謙遜に嘆願するならば、ハリストスはみすぼらしい仮小屋さえも意に介されません」と語っています。祈り求めるならば、主は私たちのところを訪れて下さるのです(黙示録3:20)。
まさに天地創造の主ご自身が、謙遜に自分自身を低めて、家畜たちの足下の飼い葉桶の中に嬰児としてお生まれになったことを、このお祝いを機会に思い起こしたいものです。