イイススは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」
マトフェイ14:16(第八主日福音)
イイススは人里離れたところへ行かれ、群衆はそのイイススの後をついて行きました。日が暮れ始め、弟子たちはだんだん心配になってきました。早く群衆を解散させないと真っ暗になってしまう。弟子たちはイイススに「ここは人里離れた所で、もう時間がたちました。群衆を解散させて下さい。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と訴えました。彼らはある意味で群衆のことを心配していたとも言えます。弟子たちの提案は現実的でもっともな考えです。

確かに男性だけで五千人の群衆を前にして、パン五つ、魚二匹だけで一体どうするのだ、という戸惑いは分かります。私たちも同様に、自分の手にあまるような大きな問題を前にして、困惑することがしばしばあります。けれども主イイススが弟子たちに求められたのは、彼らの手で食べ物を与えて欲しいと言うことでした。
イイススは五つのパンと二匹の魚を手にとって祝福し、弟子たちによって人々に配らせました。そのパンと魚は祝されて、男だけで五千人、女性と子供を入れると二万人ともいわれる人々が、みな満腹し、そのパンくずのあまりだけでも十二の籠一杯になりました。
この出来事からイイススの弟子たちも、簡単には現実の壁を克服できなかったことが分かります。弟子たちは生命を司るハリストス本人を目の前にしながらも、彼らと共におられるイイススを仰ぎ見、主に信頼することができず、現実的に物事に対処しようとしました。
弟子たちが感じたこのような不安は様々な形で私たちを襲います。弟子たちが言い出した「彼らを解散させ〜」という考えは、ハリストスによって救いに集められた人々を、この世の不安定な価値観に戻してしまうことを意味します。日本社会でクリスチャンであること、正教徒であることは少数派ならではの困難さが伴いますが、聖体礼儀によってご聖体を受けることで、神の国の宴に前もってあずかっていることを忘れてはなりません。また私たちは現実世界の中に生きていますが、一方で奇跡により宇宙万物は造られ、私たち一人一人の生命も様々な奇跡が重なった故に存在している、ということも忘れてはなりません。死から復活した主は、不可能を可能にして下さる方です。
聖使徒パウエルはフィリピ人への手紙の中で「わたしを強めて下さる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と述べています。主に依り頼みましょう。この『パンと魚の奇跡』のエピソードは、私たちが教会のありかたについて考えて行くとき、是非思い出したい箇所の一つです。