第四章 釧路正教会道東の管轄教会となる
第1節 福井司祭根室に赴任する


 明治35年の公会で、小松司祭から根室の司祭選立について次のような建議が出される。
「北海道の一部は内地の一国にも相当する程広々として果てしない大地で、この様な土地に司祭が二人だけであり(函館・札幌)、函館から根室地方を管轄するのは実に不便の極みである。特に冬期はしばしば風波が荒れ狂い船旅は絶望に近い。また、本願寺の僧侶は色丹の信徒を奪う為に種々の奸策を続けている。更に、残念な事には、色丹の根室の伝教者(モイセイ湊師)は病気の為に止むを得ず内地に帰り休養したいと申し出ており、霊糧を根室地方信徒に与える為には、一人の司祭を選立し且つ一人の伝教者を根室に派遣しなければならない。<後略>」
また、根室教会よりも次のような請願書が出されている。長文となるのでその要領を次に述べる。
 「根室教会信徒一同謹んで一書を奉呈致します。」に始まり、
 「新進の信徒は年々その数が減り、在来からの信徒の参堂も月毎に減り、事業内外共に不振の状態でございます。今日、我が正教の伸展を図らず、この現状を回復する方策を立てなければ、我が教会は自然衰退の悲境に落ち入る事でございましょう。目下我等教会の一員として教会の伸展、正教の盛大を図り、これまでの不振を刷新して当教会の隆盛を企画致したいと思います。」
と教会の実状を述べ、左記のように三項に及ぶ条件を挙げて司祭の派遣、常住を願っている。第一項は省略するが、第二項では
 「現今函館より年二回の巡回は、飛脚的に職務を行うに止まる。」
と表現しており、第三項では、
「当会に司祭が常住しなければ我等信者一日も安心して現世を送る事が出来ません。人生は神の御旨によって、信仰によってこそ幸せであり、また万一、臨終に際して、己れの罪を痛悔したくとも、傍に司祭が居なければそれも叶わず、罪悪を抱いたまま永遠に神のおそばに近寄る事も出来ません。」
と彼らの苦衷を吐露している。
 根室教会の請願、また根室教会の先駆者であるティト小松師の建議は、この公会で全員賛成のもとに可決された。
 また、この公会で湊伝教者から「内地へ転任」の請願が出され、下野国那須郡太田原正教会へ休養を兼ねて転出することになった。
 目時司祭の説明には、
「色丹在住の湊伝教者は久しく身体の不調を忍耐して同島に在り、昨年は神品会議の決議によって主教閣下より感謝状を賜りました。然しながら近頃、病気で同島に勤務する事が出来なく、内地へ転任静養したいと希望し、公会でその旨をお願いして戴きたいと依頼されました。湊は立派な伝教者であるが、病気で勤務する事は無理で、彼の代わりに一名の伝教者を派遣して戴きたい。<後略>」
 とある。
 ティト小松師の提言の中に、
「加藤神父は赴任以来一家病気で遂に転任されたが、この地方の教会を牧する人は、この地方の事を知り、体格丈夫な伝教者中から一人選抜して欲しい。<後略>」
とあり、気候温暖な内地から赴任する神品にとって冬期の厳寒、春夏の濃霧、根室・色丹島では冬期、周囲に居座る凍てつく氷原、そして生活環境の激変は神品の肉体を蝕み、その後も幾人かの犠牲者が続くのである。
 湊伝教者は再度来根するが、この公会で常陸国大津(現茨城県北茨城市大津町)の伝教者ロマン福井寧師が叙聖されて根室に赴任する。この時、ロマン福井師は小松神父に対して生命を北海道のために捧げることを誓い、ニコライ主教も福井師を招き、
「願わくは恩寵に因りて多くの人の救いの為に働かれん事を云々」
と師を祝福された。
 当時の伝教者の配置、信徒数は次の通りである。    

根室・和田・標津・羅臼地方 伝教生 マヌイル 有元文次郎
釧路・春採地方 副伝教者 アレキサンドル 室越哲哉
斜古丹・紗那・留別 伝教生 マクシム 小畑喜三郎
  
根室教会 和田教会 釧路教会 斜古丹教会
15戸 13戸 20戸 6戸
32人 44人 43人 17人

 福井司祭、有元伝教生が根室に赴任した当時の根室の教勢は、公会の請願にもあるように寥々たるもので、スボタ(土曜)、主日(日曜)の参堂者は3〜4名で、町内の信徒戸数は11戸、信徒は小児を入れても25名に過ぎず、和田村も農繁期に向かい参堂は中絶の状態で、熱心な信徒が時々根室教会に参祷する状態であった。              

  

一 釧路救主洗礼会堂

 釧路では3月に教会用地を購入し(400坪)、会堂の建設を図り、10月末には待望の会堂が竣工する。ロマン福井神父は、明治35年11月3日に来釧して信徒一同と共に感謝祈祷を献じ、翌4日、新会堂が成聖され、茲に釧路救主洗礼教会として新たなる出発を誓い、今日の基礎が当時の信徒達によって確立された。会堂は31坪程の建物で司祭館も兼ねており、小高い丘の上に建ち、当時の繁華街の真砂町、入舟町や港を見下ろしていたと思う。当時の資料が無く残念なことであるが、アレキサンドル室越師のもとで議友アンティパ藤原兄、ワッシアン鈴木留治兄、パウエル窪田兄の尽力、リュボウ室越姉を会長とする婦人会の活躍が全信徒一致協力の大きな母体になったと思われる。

 

二 標津正教会

 フィリップ伊藤兄の熱心な布教活動によって、明治35年12月21日(主日)に大人4人、小児4人が標津に巡回した福井神父によって授洗さえrた。佐々木源一夫妻と家族4人、和田村元屯田兵山内亀雄(裁判所出張所主任)、病院長染谷一郎の諸氏である。ロマン福井師は、イオアキム佐々木源一兄について次のように期待をしている。
 「特に佐々木氏は敢えて富裕というにあらざれども、当地方の名望家にて漁業組合所長その他、農商・教育・衛生等に関する職も務め居る人なれば、今後の布教には大いなる便利を得るの見込みあり、現に数名の新聴者もあれば追々好結果を結ぶならんと思わる。」
 明けて3月26日、イオアン山内の妻、パウエル染谷の妻、その両家の家族が神父によって授洗、36年の公会には信徒戸数9戸、信徒31名を数え、標津本通りイオアキム佐々木兄宅に標津教会の看板を出している。 


三 択捉島紗那正教会

 明治31年、ニコライ主教が色丹島を巡回した後、択捉島の紗那に寄港している。そこで木村という信者に会っており、留別ではイグナティ加藤師が国有林の管理者である正教徒を探し出してきたことは前述したが、この人こそステファン細野兄であり、その後、イグナティ加藤神父は彼らを訪ねて痛悔を聴き聖体を授ける。翌年、細野兄の妻ソノ、長女シマが受洗している。
 道東の教区が、函館の目時神父の臨時管轄になった同34年の公会議事録に初めて、斜古丹・紗那=伝教者モイセイ湊師の管轄としてその地名が出ている。福井神父は、根室に着任して初めて、斜古丹教会を巡回した後、同35年10月16日、択捉島に信徒を訪問している。神父はまず留別に鳥山会の篤信者イオアン岡一家を訪ねたが、同人は営業を実弟の未信者片岡六之助氏に譲り、既に帰国して不在で、翌日、馬で紗那に向かった。この時、ステファン細野鐵之助兄は出張中であったが、官吏のデミトリイ吉田弥三郎兄、銀行員のアニキタ立花宗三郎兄らが神父を歓待している。ここでアニキタ立花兄の妻ツナ、長男一男、長女ミツが受洗する。翌年5月に細野兄の次男智志磨、二女愛子が受洗。茲に、紗那正教会が細野兄宅に発足する。翌年、アニキタ立花兄の次男雄二が受洗している。
 その後、細野兄、立花兄は根室へ転居し、41年、デミトリイ吉田兄宅に教会が移るが、明治43年の公会議事録によると紗那教会は消滅し以後、根室教会に編入される。因みに、デミトリイ吉田兄はアニキタ立花兄の実兄である。
 アニキタ立花兄は、根室・網走・釧路・帯広と社命により転々と居を移し、最後に帯広におちつき、昭和29年に永眠するまで道東の正教会のために尽力している。現在、帯広市また付近に住む立花一族はアニキタ立花兄より三代、四代にわたる信者である。吉田兄は昭和初期まで紗那にいるが、その後については細野兄ともども不明である。
 信徒移動による地方教会の盛衰は止むを得ないものであるが、いわゆる“北方四島の一つである択捉島”に教会があったことを思うと転た感無量である。
 現代社会にあっては転勤は日常茶飯事であり、教会のない土地に独り身を置く場合、正教徒としてどう対処すべきか?アニキタ立花兄、薫別の山中に独り堅信を守り抜いたパウエル小川兄を通して、深く考えなければならぬ問題でなかろうか。

  


第2節 日露戦争当時の道東の情勢

 明治37年2月4日、我が国は対ロシア開戦を決定、2月10日宣戦布告、ここに日露の戦端が開かれる。
 ニコライ主教は日本において極めて苦しい立場に立たされ、主教の苦衷は察するに余りある。主教は全信徒に対して『祖国への愛について』という回状を重ねて出している。
 中村健之助氏訳『明治日本とニコライ大主教』、司祭牛丸康夫師の『日本正教史』に、ニコライ主教がこの難局を乗り切るにあたって、そのキリスト教徒たるに相応しい態度をもって行動されたことが詳細に記されている。
 ここでは、当時の日本正教会について記述するのではなく、道東の情勢を述べることが趣旨であり、次に道東管轄司祭ロマン福井神父の函館に於ける活動を述べる。

 

一 函館の露探事件

 日露両国の開戦とともに北海道の新聞界をにぎわした話題に露探(ロシアのスパイ)事件がある。この事件に先立って、明治32年に軍機保護法と要塞地帯法が公布され、軍事要塞が道南の函館山に築造された。これに依って函館山は一般人の立ち入りが一切禁止となり、地域内での写真撮影が厳禁された。
 こうした中で生まれたのが函館新聞主筆の斉藤哲郎氏、我が正教会の目時神父にかけられた露探事件である。北海道はもともとロシアに近く、軍事上神経過敏になっていた土地柄だけに、この露探事件は社会を沸騰させる格好の材料となった。
 事件が起きたのは明治37年2月で、日露国交が断絶したあと、酒田から小樽に向けて航海中の「奈古浦丸」が露艦4隻によって砲撃され、青森で沈没したとか福山が陥落したとかの流言風説が伝わり、家財を捨てて近村に逃げ出す者が出るという騒ぎであった。こうした時に地方有力紙の主筆記者をはじめ、商社員・通訳・司祭ら17名が、一斉にロシアのスパイ容疑で函館憲兵隊に検挙され、函館市外三里以遠に追放されたのである。



要塞地帯違反嫌疑者

 「右記17名は要塞地帯法第八条(要塞司令官は要塞地帯に入り兵備の状況その他地形等を視察するものと認めたる時は之を要塞地帯外に退去せしむる事を得)により、去る八日午後六時より九時十五分までの間に於いて、二十四時間内に地帯外に退去を命ぜられ<中略>。目時神父は同日有川に、その他の人も八日中にそれぞれ退去せり」
と、明治37年2月13日付の北海タイムズにある。
 目時神父らの退去事件があったあとは、増田詠隊師によって細々ながら土・日の祈祷が行われていたが、なにしろ世間には正教会に対するいろいろな悪い噂が流れていたので、信徒たちは後難を恐れて殆ど教会に出入りしていなかった。当時、函館の信徒は109戸、383人である。
 目時神父をはじめ、豊田・村木伝教者の他に二、三の信徒たちも函館退去を命じられたがその真相は誰も知らず、世間の人々は彼らを“露探”と囁きあっていた。しかし、僅かずつであるがそれも落ち着いた頃、根室教会から福井神父が来函した。

  



二 福井神父の意気 司令官を圧す

 戒厳令下の函館に乗り込んだ福井神父は、まず教会や信徒たちと無関係の旅館に宿をとり、その足ですぐ警察署・憲兵隊・要塞司令部に次のような届けを出した。
 「私儀日本ハリストス正教会司祭であり、根室国根室町字松本に居住し、宣教届けずみの上(当時宣教届けを必ず支庁長を通して道長官に出してその届け出の地域を宣教する)北海道北部(十勝・釧路・根室・北見・千島)を宣教致しておりますが、今回4月9日、ハリストス復活大祭につき祈祷奉事のため出張、約二十日間滞在し度く此の段お届け致します。」
 ところが、警察署や憲兵隊ではこの届け書は必要なし、といとも軽くあしらわれたので、神父は強引に警察署長や憲兵隊長に面会を要求し、
「私と同職の目時司祭達は、何の罪もないのに函館退去を命ぜられたじゃありませんか、私も同じ様にあらぬ嫌疑をかけられて追い出されちゃたまりませんからね。」
と開き直った。
 「いやいや、司祭達を退去させたのは宗教上の事のためではないのです。貴方は宗教上の必要に応じて来函したのですから、憲法の保障もある事ですし遠慮なくどしどし仕事をしていただきたい。若し、貴方に妨害を加える者があったら早速届けて下さい。我々は職責上充分保護いたしますから。」
と、どちらのおえら方も福井神父の剣幕に驚いて丁寧な態度をとった。
 その後、福井神父は増田詠隊師とともに、昼夜兼行で信徒の家を訪問し、詠隊者を集め、老人や病者を慰問し、痛悔、領聖を勧めた。司祭たちの励ましで大部分の人たちはやっと安心することが出来て、大金曜日の午後3時と6時の祈祷には100名以上の参祷者が、さらに大祭及び大祭後の感謝祈祷には150名以上の信徒が集まり、その後の廻家祈祷も無事終わることが出来た。その後、福井神父は4月14日、有川に目時神父を訪問し、18日に再び函館に戻り、翌朝から要塞司令部に対し猛烈な運動を始めた。まず次のような書面を司令官に提出した。
 「謹んで要塞指令閣下に申し上げます。先般函館正教会司祭の目時神父、村木、豊田伝教者達が、要塞地帯法によって函館退去を命ぜられた事件についてお願いがあります。
 目下は軍事多端、いやしくも国民たる者は凡てその業に励み、専心国恩に報じようとしています。宗教家といえどもそれぞれ神に奉仕し、祭りを行うだけでなく、国民の信念や道徳心を導き、励まし、国に尽くすべき事を教えて居ります。にもかかわらず前記の者達だけが不幸にも嫌疑をこうむり、行動の自由をうばわれ、日本人として最も不名誉な名称のもとに退去させられ、唯空しくその責任を放棄しなければならない有様となりました<中略>。かりに、目時司祭等に非難を受けるべき行為があったと言うのであれば、自業自得とあきらめもしますが、彼らは一般退去者とちがって全然世俗の事には関係のない人々です。世界の公道に奉仕する宗教家を以て任ずる者たちであるから、一点の疑いもいだく所がないと確信いたします。
 事実を調査していただければ、すぐにも退去命令が解除になるものと我々は信じていたのですが、すでに七十日にもなるのにまだ何の音沙汰もありません。
 国家のため宗教のためにもすみやかに公明正大な調査をしていただき、帰任の命を賜る様お願い申し上げます。
                                                           頓首
                                                     司祭 福井 寧
 函館司令官御中」
 書面を提出したあと、司令官に面接を求めたが、司令官は目下病気静養中ということで会えず副官が相手になったが、神父の矢継ぎ早の質問に副官も根負けし、神父を別室で参謀に引き合わせた。ここでも一時間あまりの話し合いが続いた。参謀も横柄でなく、いたって物静かで落ち着いた対応となったが、目時神父等の退去命令解除についてはノレンに腕押しの状態で、解決を見なく福井神父の帰根となる。その後、豊田伝教者は6月、有川の目時神父は8月に退去命令解除となった。
 写真で見る限り福井神父は小柄な方である。その小躯からほとばしる獅子吼には副官も参謀も応えるすべもなかった。師が司令官に提出した願い書は、当時の正教徒の心情を表したものであり、主教ニコライ座下の回状の趣旨にもかなうものであろう。

  



三 釧路・根室・和田・網走

 明治37年の復活祭は、道東釧路の解氷期に当たったので道はどろんこでぬかり、この様子では人は集まるだろうかと心配したが、夕方から続々と参祷者が現れて午後10時頃にはすでに50余人になった。例刻から室越伝教者は14,5名の詠隊と共に祈祷を献じる。終わってひと休みしたあと、マトロナ小山、ソヒヤ鈴木、リュボウ鈴木、ルキヤ中沢、イサイヤ上野、ルカ藤原の少年少女たちが交々立ち、祝詞の朗読を行い並み居る信徒らの感動を誘う。続いて有志の演説、茶菓のもてなしがあり、最後に未信者の駒野老兄が工夫した福引きの余興があって和気藹々のうちに時が過ぎ、万歳の三唱と共に午前8時頃散会した。当会は室越伝教者夫妻のたゆまぬ努力によって世間の悪声誹謗などのために信仰を失うものもなく今回、イオアン笹井の一戸が新たに教会に加わった。
 根室教会は当時、福井司祭、伝教生フェオドル斎藤東吉師の体制で、斎藤師は標津に滞在して新聴者の宣教に従事していた。復活祭前、福井神父は後事を斎藤師に託して函館に出張した。従って、根室の復活祭は斎藤師によって執行されたが記録が無い。根室教会では日露の外交切迫し戦雲漂う前年の12月1日、ティト向井兄の子息ワシリイ兄が旭川連隊に入営することになった。11月19日、根室・和田両教会信者相談の上、ワシリイ向井兄の送別会を開く。根室教会に集まる信徒、根室会32人、和田会4人、色丹会1人。福井神父の説教、コルニリイ小山兄の開会の辞、斎藤師の祝辞及びワシリイ兄の答辞にはじまり、盛大な壮行会が開かれた。また、11月26日には、標津会のルカ福田兄も入営のため来会し、各兄弟姉妹に送られて旭川に向かっている。両兄は翌年の日露戦争に旭川より出征したと考えられるが確たる資料がない。日露戦争には、和田旧四大隊一、二中隊より105名が出征している。和田教会の信徒もロギン狩野万五郎兄はじめ5名の者が加わっている。皆、ニコライ主教の回状にある、
 「兄弟姉妹たちよ、この様な事態にあって忠良な臣民としての義務が要求することは、すべて実行せよ。あなた方の天皇の軍に神が勝利を与えて下さるよう祈れ。『友のために自分の命を捨てる事、これ以上に大きい愛はない。』(ヨハネによる福音書15:13)祖国への愛は神聖な感情である。」
という主教の趣旨に従って勇躍戦地に向かったことであろう。
 後で詳述するが、福井神父は函館より帰根後の6月に網走を訪問している。時は日露戦争下であるにもかかわらず、網走の信徒は歓喜して神父を迎え、師に伝教者の派遣を願い、37年8月には正教会の看板が網走の町内に掲げられた。
 日清戦争後、ロシアを先頭に三国干渉があり、明治31年にはロシアが清国より旅順・大連を租借するなど、我が国民のロシアに対する敵愾心は相当なものであったと思う。正教は露人ニコライ主教によって伝えられており、正教はロシアの国教である。当時、道東に於いてもロシアに対する敵愾心から我が正教徒に対しての誹謗などの迫害も多々あったことであろう。
 しかし、ニコライ主教によって播かれた正教の種子は、日本人の伝教者、司祭がこれを育み、これを伝えたことが大きな緩衝の役割を果たしており、また私たちの祖先も正教を完全に自分たちの信仰として受け入れ、日本人としてハリストスを心から畏敬し求めていたのではなかろうか。福井神父が函館の要塞司令官に提出した書面の内容に当時の正教徒の心情が吐露されていると思う。第二次大戦下で要路の司令官にあれ程のことが出来たであろうか。勝利と敗戦の違いはあったにしても明治の時代はよき時代であったのであろう。
 明治38年7月公会時の教勢は次のとおりである。

根室 標津 釧路 和田 網走 帯広 斜古丹 国後紗那
22戸 10戸 25戸 8戸 12戸 10戸 23戸 10戸
66名 31名 66名 28名 24名 23名 84名 23名

道東の聖洗者は、

35年 36年 37年 38年
20名 41名 38名 32名

となっており、教勢も前年に比して遜色なく、聖洗者も数に於いて見劣りせず、信仰上においては、数字を見る限りこの戦争による影響は殆ど現れていない。

  


第3節 北見国伝道開始

 北見国伝道開始次第については、現在釧路正教会信徒で女満別町に住む田中家に伝わる貴重な文献である『網走正教会会事誌』に詳しく記されている。外に『一九〇三年(明治36年)九月日本正教会独立基金扣-網走町ハリスト正教会(原文ママ)』と記された帳簿、更に日本正教会に達する公書(これにはエピスコプ・ニコライ、一九〇三年七月とある)なども保管されている。何れも貴重なものであり、ニコライ主教名による当時の『公書』が現在に至るまで保管されていることは、恐らく稀有のことであると思われる。以下、『網走正教会会事誌』に準拠して北見国伝道開始について述べる。
 福井神父が函館に出張中、網走に二、三の正教徒がいることを聞いたのであろうか、明治37年6月に網走の信徒を訪問している。当時の網走には、牛乳販売業を営んでいるアレキサンドル氏家直吉兄、下宿業のマリヤ上田姉(姉の長女は網走監獄看守長瀬波氏夫人で熱心な正教徒である)、マリヤ芦立姉が3人の子供と住んでおり、何れも函館会の信徒で皆歓喜して福井神父を迎え、痛悔・領聖を受け、神父に是非伝教者を当地に派遣して戴きたいと願った。外にイオアン野々村良延兄が当町役場に勤めていたが、福井神父来網前の1月に国後島泊村役場吏員として転任している。イオアン野々村兄は明治24年9月、札幌に伝教生として赴任し、26年には公会議事録より姿を消している。その後、官に仕えたのであろうが、何時頃来網したか不明である。また、明治26年に和田屯田兵としてティト小松神父より受洗したイオアン中川三男兄(聖公会の山田氏経営の燐寸工場勤務)、ノエ藤井源次郎兄(監獄看守)らも網走正教会信徒として名を列ねている。以上の事柄からしても正教徒の来網はかなり早い時期と思われる。この年の公会でマクシム小畑喜三郎副伝教者が斜古丹教会より網走に着任し、空家になった前記イオアン野々村兄宅(網走町南裏通り6丁目)に伝教会を開き、ハリストス正教会の看板を掲げる。これより先、6月にダニイル田中千松兄が小樽より来町し、表通り5丁目に薬舗を開店している。ダニイル兄は熱心な正教徒であり、前記アレキサンドル氏家兄と協力して伝教者を助け、会事に励み、ここに網走正教会の基礎が出来上がり、その後の確実な発展につながって行く。
 『網走正教会会事誌』に、マクシム小畑師が写真師吉田登一氏方に同居し、氏が熱心な正教徒に変貌する経緯を次のように記している。
 「吉田氏は未信者であったが、氏の妻女は正教徒ゲオルギイ芦立文人兄の娘で、聖名はリュボウ、熱心な信徒であったが、小畑師着任前の八月十六日に病で永眠している。以来、吉田師は悲嘆に沈み、独居生活を余儀なくしていたが、信者一同相談し、互いに便利であろうとの配慮で両氏の同居となった。その後、吉田氏はマクシム小畑師の熱心な伝教によって正教を信仰し、聖名イアコフとして福井神父によって授洗される」とある。イアコフ吉田兄はその後、網走正教会の篤信な信徒となり教事に尽力している。
 明治38年4月、マクシム小畑師は、病のため辞職、帰国した。師は34年に根室、35年、36年には斜古丹教会に勤務、37年の公会で、
 「昨年来の寒気の為に身体の健康を失い、千島の極寒堪え難く他に転勤させて戴きたい」
と請願し、その年に網走に着任となったが、道東根室、色丹島の気候不順、極寒は既に師の身体を蝕んでいたのであろう。網走教会は一時、伝教者不在となるが、38年7月の公会で、陸前国築館教会からニル東根喜惣治伝教者が着任する。この年の公会議事録には網走・現戸12,信徒24,洗礼者6(大4小2)と記録されており、その後、網走正教会は年毎に発展していく。因みに、網走には明治20年代から聖公会が進出し、明治26年には大曲に礼拝堂が建ち、講義所が北見町(網走町内)南通り4丁目に置かれ、正教会・聖公会間にはトラブルも無く互いに協力的であったことは後章で述べている通りである。
 次に前記の『日本正教会独立基金扣』と、1930年達しのエピスコプ・ニコライ師の『日本正教会信徒に達する公書』を通して網走正教会の事始めに付いて考えてみたい。福井神父が初めて来網されたのは明治37年のことである。前記の『独立基金扣』と『公書』は明治36年代のもので、そこに奇異を感じるが、『公書』は函館教会からアレキサンドル氏家兄に直接送付されたものであろう。
 明治36年には日本とロシアの国際関係が思わしくなく、日露の国交が悪化すればする程日本に送られてくる伝道資金が減少する状態であった。そして事実、一時は資金が途絶えた。ニコライ主教は数回にわたって教書を発し、全信徒に対して独立する為の教会献金募集を行った。勿論、当時の道東教会はニコライ主教の公書に従って、教会毎に取り組んだことは間違いないであろうが、残念ながら資料がない。因って、前記の『日本正教会信徒に達する公書』に、網走正教会の信徒が如何様に対処したか、その一端に触れてみる。
 明治36年9月の『公書』は、再現するにはかなりの長文となるので結論だけに止める。
 「-故に兄弟よ。神の助けをもって、爾等の教会を此の禍(教会の災難)より防がんことを務めよ。これが為に何を為すべきか。今年の神品会は熱心にこの問題を討議し、現今の状態解決の為に左記のように決定す。
一、教会の役者に供給する基本金を漸次に積み立てる為に、信者男女を問わず七才より六十才まで、来る九月より毎月一銭ずつを献納する事。次項略す。
一、毎月六月下旬、集金に、収入簿のうつしを添えて本会に送付する事。次項略す。
一、漸次に積み立てた献金を教会の役者に供給する時、及び之を使用する方法は爾後の公会の衆議に付すべき事。」
 網走正教会の『独立基金扣』を見ると、36年9月から毎月12,3人の信者が二銭、三銭、五銭、二十銭と、それぞれの家庭に応じて献金している。9月の項を見るとゲオルギイ芦立、マリヤ芦立夫妻とその子女3名、リュボウ吉田、マリヤ上田、その子のイオフ、アレキサンドル氏家、イオアン中川、コスマ中島(山田燐寸工場勤務)ダニイル田中の氏名があがっている。『網走正教会会事誌』にダニイル兄は37年6月来網とあるが、兄はその頃、既に網走に来ていたのであろう。37年2月以降の資料は見あたらぬが、38年の“締め”には次のように記入されている。
 「金六円九十三銭也 郵便局へ貯金ス内金六円也 三十八年六月十日受取リ福井神父ヘ送金ス 差引金九十三銭 残余」
 これを見ると、網走正教会創始期の正教徒の姿がかなり詳しく浮かび上がっている。更に、当時の信徒らが日露戦争下に於ける主教ニコライ師の『公書』に従って、如何に忠実にこれを実行していたかがよく現れている。
 また、後で述べるが明治39年の公会で、伝教者の負担は地元で負担すべきだと言う方針が出され、シメオン三井長司祭、ペートル石川喜三郎師が9月10日から函館・札幌・旭川・帯広・釧路・和田・根室と各教会を巡回された。網走教会には来られなかったようであるが、網走教会に次のような誓約書が残っている。起草年月日が明記されていないが、末尾にあるニル東根師は、明治40年に網走で解職になった伝教者であり、師の在職中に起草されたと思うが、或いは大正初期のものかも知れない。然し、シメオン三井、ペートル石川両師の全国教会巡回の趣旨に沿うものであり、敢えてここに紹介するものである。

                誓約書
 網走町に在住する正教徒は、所轄教役者の供給並びに他日正教会建設の予備金として応分の出金を為す事を約す。
アレキサンドル 氏家直吉
ダニイル     田中千松
イアコフ     吉田登一
パウリン     山口直太郎
ワシリイ     向井藤太郎
テクサ      棟方てくさ
イオアン     東海林与兵衛
ニル       東根喜惣治

以上を見ても、当時の網走正教会信徒の信仰に対する熾烈な心構えを窺い知ることができる。惜しむらくは、会堂の建立は出来なかったが、現代の我々に“信仰”という大切な精神的な遺産を残してくれたものと思う。

  


第4節 十勝の大地に正教が芽生える

 明治38年の公会議事録を見ると、アレキサンドル室越伝教者の次のような請願がある。
 「十勝国帯広町には正教信徒二十三名、戸数十戸あり、新聴者も多く且つ信徒の教養上是非一名の専任伝教者を派遣されたい」
また、帯広教会からもこのような請願が出ている。
 「当帯広町は十勝国の中央にあり、其の繁栄国内に比なく北海道庁河西支庁、区裁判所、監獄、警察署、農事試験場、測候所其の他の諸官衙(かんが=官庁)及び町村組合、役場、郵便電信、学校、銀行等凡そ社会に必要な機関は全部そろっており、現在戸数一千余戸、附近の農家も万を数える程で、拓地殖民事業も年々長足の進歩を遂げ<中略>。由来当町には聖公会が永年布教をしており多くの信者と会堂があり、今や大きな勢力となって居ります。しかしながら、我等信者は教会も無く、又専任伝教者も居ない状態で、正教会の為には遺憾この上ないと思います。以前福井神父が、御巡回の節、ことこまかに御願い申し上げておきましたが、本公会に於いて我等信者の希望及び当地方の状況を御憐察の上、是非一名の専任伝教師を御派遣下さる様信者連署して請願致します。
     北海道十勝国河西郡帯広町
          パウエル   寺門 時雄
          アンドレイ   斎藤喜之助
          ペトル     松本 雲次
          モイセイ    鈴木 幾 」
 また、この年の公会議事録の景況表を見ると帯広、現戸10,現信徒23名、伝教者は釧路のアレキサンドル室越となっている。
 帯広が公会議事録に載ったのは、この年が初めてであり、37年にはアレキサンドル室越師が帯広を訪ねて、彼ら正教徒を組織化したものと思う。福井神父が38年の春季巡回に釧路を訪問した後、室越師を同伴して帯広に巡回、9人の者に授洗、信徒の痛悔を受け、領聖を行ったものと思われる。景況表に洗礼者大人4,小人5,総計9となっている。
 鉄道は37年8月には釧路より豊頃、12月には利別(帯広まで二十`)まで延び、38年10月には釧路-帯広間が開通している。
 当時の帯広町は周辺に広大な農地が拓け、人口六千余の官衙街として発展途上にあり、聖公会は古く明治25年、晩成社開墾地の渡辺勝宅で鯨岡寅吉が説教を試みたに始まるという。その後、講義所が開かれて31年春、当地方で最初の礼拝堂が東一条九丁目に建った。
 この公会(明治38年)で帯広には伝教生イアコフ金森雅各師が配置され、帯広町西二条三丁目十八番地モイセイ鈴木方に帯広正教会の看板が掲げられる。
 網走・帯広教会が共に日露戦争の勃発時に興ったことは、明治信徒の信仰はまさに戦争に関係なく、信仰は神から受け容れ、そして自らハリストス神を求めた真のハリステアニンであり、彼らが我らの先祖であることに深い驚きと感動が湧く。
 だが最果てという言葉が当てはまるのだろうか。明治31年から道東の釧路で教会を興し、釧路の信徒に神の福音を説き続けてきたアレキサンドル室越師も、釧路の極寒、春から夏にかけての濃霧による気候不順が師の身体を蝕んだのであろう。明治38年の公会で次のように請願している。
 「身体の健康を損ない極寒地の伝教には堪えがたく内地に転任致したいと思います」
 師は明治29年の公会で根室教会に配置され、色丹島にも渡り、唱歌教師兼伝教生として先住民を教化し、また根室・和田でも伝教に従事し、31年にニコライ主教が来根された時、主教の命により初めて釧路に伝教者として配置され、信徒を教化し、新聴者の多くを正教に導き、釧路を道東一の教会に発展させた先駆者であり、永遠に記憶される伝教者であろう。
 アレキサンドル室越師は、この公会で司祭パウエル森田師(前橋教会)管轄の安中教会へ転任し、安中・富岡・田篠・福島地方を担当する。その後、足利教会に移り、大正6年に青森市浦町ハリストス教会へ転任するが、間もなく足利教会に呼び戻され、大正9年11月3日、49歳で永眠。足利教会墓地に永寝なさっている。師の出身地は栃木県那須郡市野沢村である。師の後任として副伝教者小川文治師が釧路へ着任する。      

  


第5節 日露戦争の後遺症

一 シメオン三井長司祭の道東巡回

 日露戦争は連戦連勝し、日本の輝かしい勝利に終わった。戦争中、捕虜になったロシアの将兵は多数(72000名)にのぼった。彼らは松山・姫路・名古屋等全国27カ所に収容され、日本政府はこの戦争中も捕虜を厚遇し、日本正教会もニコライ主教の指導のもとに各収容所に司祭を派遣し、聖体礼儀やその他の祈りをロシア語で行った。この時、ロシア文の福音書や祈祷書が作られた。このようなことは、世界的に日本国及び日本正教会の博愛的精神の名を高めることとなり、国内的にもロシア人たるニコライ主教によって播かれた正教は、世人の悪評を完全に覆し、実に世界的なるキリスト教であることを証明し得た。我が国の正教徒が身命を国に捧げ、一死をもって国恩に報い、その血をもって汚名を雪いだ結果でもあろう。
 然しながら、ロシアからの資金が途絶え、そのことが今後の我が正教会に重くのしかかり、教役者に、ひいては教勢にも影響する結果となる。
 明治39年の予備会議で伝教者供給費の問題が出た。日露戦争後、経済的に苦しくなった日本正教会は、伝教者の費用は地元で負担すべきだという方針を打ち出したのである。
 ニコライ大主教(この年から大主教)に励まされて、シメオン三井長司祭とペートル石川喜三郎師は全国の教会を巡回し、信者とその問題について話し合うことになった。道東には福井神父が根室に在って広大な牧野を管轄されていた。当時の不便極まる交通事情は、旭川から落合まで、道東はようやく釧路から帯広まで鉄道が開設されたばかりである。両師は明治39年9月20日午後4時20分旭川を出発し、その日は落合駅逓に一泊、翌日は折悪しく馬車がないので徒歩で狩勝越えし、新得を経てペケルベツ(現清水町)に着き更に一泊する。翌日、ペケルベツ駅逓より芽室を経て9月24日午後1時にようやく帯広に到着している。
 当時の道東正教会、信徒の状態を石川師の巡回記録より偲び、これを次に要約する。
 「帯広。この地も新開地で家屋は皆新しく、市街は札幌・旭川と同じく東西南北に碁盤の目の様に区画され、道路の幅は広く、内地でも東京丸の内馬場先門通りの外、何処にも見る事が出来ない。北海道の市街には人力車が見えず馬車だけである。
 同夜。信徒集会を開き三井司祭祈祷を献じ説教する。集まった信徒は私達の勧めを待たず、伝教者供給の必要を認め、直ちに月額有志金の申し出をし、供給費の問題は即座に決まる。供給費は未だ小数な信者の負担で少額な金額であるが、今日集まらぬ信徒もおり、目下新聴者も相当居ると聞き、後日好結果となる事が期待出来る。当会の尽力家はモイセイ鈴木幾氏並びに当地の看手のアンドレイ斎藤喜之助氏で、教会(伝教者はイアコフ金森雅各氏)は目下モイセイ鈴木兄宅に設けられている。
 二十六日。止若(現幕別町)の一信徒を訪問し宿舎でくつろいでいた時、伝教者金森氏が悲報をもって訪ねて来る。それはモイセイ鈴木氏の令息シメオン(十三才)が今日森に入り、大木に登って“コクワ”の実を取っているうちに過って墜落即死したとの事、我等この変事を聞き夢かとばかり驚く。この少年は昨夜三井神父が祈祷を献ずる際、我等と共に清らかな美声で賛美歌を歌った少年である。
 当教会で永眠者を出したのは今回が初めての事なので、一般信徒に教会埋葬の風習を見習わしめる必要から、釧路教会に電報して棺覆・祭服携帯の上、小川伝教者の出張を依頼した。同夜、三井神父永眠者のために祈祷・説教を行う。鈴木氏は当地でも知名の人で当町の有志知人の会葬者多く、特に当町の高等小学校長、永眠者シメオンの受持教師が、同級生数十人を率いて葬儀に参加した事に深い感銘を受けた。
 二十八日。小川伝教者ともども午後二時頃帯広を出発、夜、アンティパ藤原外二、三の信徒の迎えを受け、直ちに小山の上にある釧路の会堂に着く。その夜、信徒の集会を開き、三井神父並びに我等も伝教者供給に就いて説教する。来会者の信徒は直ちに献金額を銘々申し出て、毎月若干円供給する好結果となった。供給問題に関しては一言の異議、議論もなかった。当夜、釧路会堂に泊まる。
 二十九日。我等は釧路教会の小川伝教者の案内で春採村に向かう。会堂より一里余の寒村にワッシアン鈴木氏を訪問する。それは、家というより全くの草小屋同然で半分は土間、半分は板の間であるが、一方の板壁に聖像をかかげ、祭台の上に机を置いてある。ワッシアンは当年六十二、三才の老人で妻はホタテと言う。仕事は農業、近くが海岸なので昆布を採っているとの事である。常食は三度ともジャガ芋で都会人の食物等夢にも見る事が出来ず、家財道具は日用の食事に必要以外一物も無く全くの赤貧で、東京近くではこの様な茅屋と、かくの様な貧しい家は見る事も出来ない程である。
 我等は伝教者供給費の相談の為に来た事を話すと、ワッシアン氏は多く言わず唯毎月一円(当時米一升が十四、五銭)供給する約束をする。氏の生計、その家の様子を見ては、とても毎月一円を献ずる事は難しいと思い、毎月の事なのでと種々注意がましい事を言ったが、ワッシアン氏は之を献ずるのは当然と約束する。
 氏はこの事ばかりでなく、教会に金の必要な事を聞くと、何時も献金を惜しまず、他の信徒と少しも変わらぬ寄付をして、人々は何時も感心している程であった。この供給を勧めに来た我等も大いに恥じる。実に氏の如きは主の福音を解し、熱烈な信仰を持つハリステアニンと申すべきであろう。アンティパ藤原氏も毎月定額の約束をしてくれる」
 ワッシアン鈴木兄は仙台出身で、釧路教会創立前後、アンティパ藤原兄と共に教会の柱石として議友をつとめ、アンティパ兄亡き後は議友長(明治45年より大正中期にかけ)に選ばれ、私財(土地)を手放してまで釧路教会の経済的独立を図り、子息のアレクセイ鈴木源太郎、女婿イシドル武内好信兄らは、その後の釧路教会の篤信な信徒としてワッシアン鈴木兄の遺志を継いでいる。ワッシアン鈴木兄も釧路教会にとって永遠に記憶される人である。
 アンティパ藤原兄はこの7月、代議人として初めて公会に出席し、ニコライ大主教の「伝教者供給費の地元負担」の玉音に接し、公会の実状を身をもって体験してこられた。
 シメオン三井、ペートル石川の両師は釧路での用務を終え10月2日午後、1200トン程の花咲丸で根室に向かい翌朝7時に根室に着く。
 「根室。廣田(副伝教者)、斎藤(この年、斜古丹勤務となる)の両君、二、三の女徒の出迎えを受け会堂に案内される。当根室教会は町の中央より北東にあり(松本町三丁目)あまり良い場所と言えないが、会堂は祈祷所も十分広く(二百人収容できた)伝教者家族の居住室もあり便利に出来ている。祈祷所正面の聖像は元京都の仮会堂にあった由である。
 翌日の夜、信徒集会を開き福井神父も加わる。我等供給の必要を述べる。信徒等、伝教者供給費は無論奮ってしなければと各自銘々に金高を神に記し、今夜、来会出来ない信徒を訪問して供給額を決めると約束する。
 十月六日。福井神父同行して、根室より一里程の和田村の信徒を訪問する。この村は所謂屯田兵村で当初は四百戸もあり、小松神父の当地方管轄時代には中々盛んな教会で仮会堂まであったが、追々信徒他に分散し、今は一、二戸を残すのみで、我等は戸田氏の宅のみ訪問して帰る。
 十月九日。同夜二六亭という寄席(本町一丁目)で大演説会を開催する。来聴者は一昨日来の風雨のため少数であったが、我等の滞在日数も迫り、また二六亭の貸席の都合もあり、支庁の官吏パウエル窪田氏の開会の辞に始まり、廣田伝教者、我等、福井神父と一場の演説をする。演説会は聴者少なく効果の程はわかりかねたが、当会信徒諸氏、特に執事諸兄の昨夜来の奔走、費用を厭わず教会のために企画した労に対して深く感謝する」
 シメオン・ペートルの両氏は、10月11日、根室会信徒、執事諸兄姉、福井神父に見送られて夜7時、700余トンの田子の浦丸に乗船して根室から函館に向かっている。
 なお、石川師の巡回記録に、
 「当時の根室会の執事イオアキム岡、イオアン尾形(房太郎)の諸氏朝夕来訪して種々配慮せらる。イオアン山内(明治35年、標津でイオアキム佐々木兄と共に福井神父より授洗、その後、根室に在住)、パウエル窪田(範次、支庁の人事異動で釧路より移転)、ステファン細野(鐵之助、支庁の森林看視員で、明治34年に紗那正教会の看板がステファン兄宅に掲げられた)の諸氏も屡々来訪せらる」
と記されている。 

  

二 伝教者の減員

 明治40年の公会も前年にも増して財政問題に終始した。その点について、ニコライ大主教の公会開会の説教並びに公会の結果を述べる。

     大主教の公会開会の説教要旨

 「昨年の伝道事業は例年と異なる事なく、又神恩は何時もの如く信徒の増加の上に現れた。昨年の増加は最近数年間の増加に比べて却って多く、教役者の数はこれまでになく多数となった。然るに、それと共に余は告げなければならない事がある。即ち、教役者を養う経費が今日の如く不足になった事も亦未曾有のことである。昨年の教会経費の不足額は二万二百二十六円であった。故に、余は聖務会院並びに伝道会社に対して毎年二万円の増額補助を願った。露国では余の願意に同情をよせ、露国教会は母なる愛をもって余の願意に応えようとなさった。しかし、実際には補助が出来なく、余の願いは遂に成就する事が出来なかった。
 露国は現時の内乱(レーニンらの指導する革命運動の発展で動揺していた)の為に、伝道事業に対する寄付金大いに減じ、従ってこの事業に対する経費に欠乏をきたし、増額補給のみならず従来の伝道費すら減ぜられた状態である<中略>。今後、日本正教会は自己の力をもって歩まなければならない。神は明らかにこれを指示なさった。余は此の事を確信する。爾等及び爾等と共に全信徒は同じ様に此の確信を持たなければならない<中略>。三十三年間、我等が公会に集まる毎に余は其の度毎に爾等に告げて、信徒等を励ましてその教会の教役者を養うべき事を慮る様に勧めて来た。今や是を実行すべき時であり一瞬の猶予すら許されない。来たる九月から爾等司祭並びにすべての伝教者に送られる月費は四分の一を減じ、その四分の一は爾等司祭並びに各伝教者に日本正教会信徒が補給しなければならない。これを実行する為には如何にすべきか。今、この事について議論しなければならない。これこそ今年の公会の重要問題である。」

 翌日も大主教は本年度の出納帳により正教会の赤字額を示され、このことについて日本正教会信徒の寄付金をもって充当し、司祭・伝教者に今まで本会よりの支給額の四分の一を地方教会で負担する方途を考えるよう、審議なされと命じて退席なさる。
 各司祭こもごも立って意見を述べたが、各教会の現状は、一般信徒の負担が容易でないという意見が多く、結局次のような決議となる。
一、教会、講義所等の家賃を信徒負担とすること
一、司祭の家賃を管轄教区内一般信徒で負担すること
一、各学校出版物の経費を削減すること
以上の方針で財源を補充し、なお不足の場合は教役者の人員を減ずることなどを決議したが、午後の会議で伝教者の淘汰を大多数で決議した。19日の本会議で大主教もこれを受け入れる。
 その間の事情を『網走正教会会事誌』には次のように記されている。
 「四十年の公会に於いて教会経営上止むを得ざる事情の為、四十名の教役者を減ずる事になり、当会の東根師その選に当たり解職となる」
また、39年に根室・和田・標津管轄として根室に赴任した副伝教者サムイル廣田延繁師も解職となり、斜古丹教会の副伝教者フェオドル斎藤東吉師も事情は異なるが、10月自ら辞職している。東根師は網走に残り一時、監獄看守となる。根室の廣田師も東根師に誘われて来網し、ともに網走正教会信徒として名を連ねている。斎藤師は釧路の舅アンティパ藤原兄宅に身を寄せたが、その後一時、聖公会に転じている。また、38年に釧路に赴任したパウエル小川副伝教者も41年の春、病気のため休職したが、師は43年に復職して斜古丹教会に赴任している。
 明治41年の公会で司祭・伝教者は161人となる。前年の公会時には教役者は204人で今回、43人減じたことになる。
 40年の公会で解職になった根室教会の廣田師の後任に副伝教者イアコフ杉本親、網走教会のニル東根師の後任に稚内からシモン東海林勇次郎伝教者が夫々赴任した。
 シモン東海林伝教者は明治20年に伝教生として初めて根室へ赴任し、モイセイ湊師と共に根室正教会の黄金時代を作り、根室・江刺・稚内・網走と20年間北海道の海岸地方を歩き、網走へ赴任した時には自らの健康を害していたのであろう。網走在住僅か1年で自ら請願して41年8月に横須賀教会に去り、網走教会は一時、閉鎖の止むなきに至っている。
 シモン東海林師は大正4年、モイセイ白岩司祭管轄の青森浦町教会に移り、大正6年の公会まで在職している。大正7年の伝教者名簿に師の名がない。同6年の公会を機に休職されたのであろう。
 シモン東海林師を伯父に持つ岩手県山田正教会のユリッタ小川せつ姉の話によると、師は青森で永眠され、その地に埋葬された。牧島神父の時代(昭和50年前後であろう)に、子息が青森にあった師の遺骨を故郷である山田町龍昭寺の東海林家の墓に埋葬されたそうである。その子息も既に亡く、師の永眠月日は残念ながら不明である。師もまた、道東正教会の先駆者として永遠に記憶される聖職者であろう。 

  

三 和田顕栄教会

 ニコライ主教が根室に巡回された後、和田教会は明治31年9月2日、和田顕栄教会として根室から独立したが、その後の盛衰については前述した通りである。『和田村史』に、
「明治三十七、八年の日露戦争までは大部分が居残って奉公の日を待っておりました<中略>。この戦役の結果、幾百年間杞憂された北海の天地も小康を得ましたので、凱旋と共に最早安心してこの兵村を去る者が続出し、他町村に移転して有利な職業を求めましたが、多くは官途につき進出の途を講じられたようであります」
と載っている。
 和田正教会も例外でなく、明治30年には信徒戸数14戸、信徒79名を有していたが、36年には8戸36名、39年には信徒戸数8戸、信徒28名と減少し、明治40年には教会も消滅し「根室和田村正教会」として根室教会に吸収される。事情は異なるが、これも日露戦争の後遺症であろうか。
 明治41年の道東教会所在地と教勢は次の通りである。

教会名 根室和田村教会 標津正教会 釧路洗礼教会
住 所 根室町松本町三丁目二番地 標津村六十五番地 伊藤繁喜方 釧路村字春採百七十三番地
信徒数 7戸 21名 10戸 32名 41戸 113名
管 轄 副伝教者 イアコフ杉本 司祭直轄 副伝教者 パウエル小川
教会名 帯広正教会 網走正教会 斜古丹聖三者教会
住 所 帯広町西二条七丁目十五番地 網走町南裏通り五丁目 色丹郡斜古丹村
信徒数 25戸 67名 19戸 51名 24戸 83名
管 轄 副伝教者 イアコフ金森 伝教者 シモン東海林 司祭直轄

 この年、当時ロシアのヤンブルグ市の主教とペテルブルグ神学大学総長を兼任していたセルギイ主教(37歳)が、ニコライ大主教の補佐として日本正教会に赴任する。

  


第6節 セルギイ主教の道東巡回

一 明治42年帯広正教会会堂建立される

 『帯広市史』には、ハリストス正教会帯広会堂、明治42年10月、西三条三丁目に建つとあるが、セルギイ主教道東巡回の際、9月30日に帯広の会堂に宿泊されており、また明治42年の公会議事録に載っている帯広教会の住所は、帯広町西三条三丁目二十番地となっている。公会は例年7月に開会されているので、教会は42年7月以前に建立されたものと思われる。資料は何も残っていないが『正教新報』、公会議事録を見る限り、当時25戸の信徒の熱烈な信仰が凝縮し、自らの教会を建てたのであろう。その信仰を結集し、その中心となったのはモイセイ鈴木、看守のアンドレイ斎藤、イオアン小田島の諸兄である。当時の伝教者は、明治38年より41年までは伝教生金森雅各師、41年の公会後、43年までは副伝教者パウエル松本太平師である。

  

二 セルギイ主教の道東巡回

 明治41年、ニコライ大主教の補佐として日本正教会に来任したセルギイ主教は、着任早々日本正教会の信者に会うための巡回を始める。『府主教渡来二十五年記念誌』より道東巡回を、併せて当時の『釧路新聞』の報道、『網走正教会会事誌』の一部を引用して当時の状況を考えてみたい。
 当時、上野−青森間の鉄道、青函連絡船、函館から旭川経由で釧路まで鉄道が開通している。

9月30日 江別発午後二時二十一分、単身旭川経由で九月三十日午後一時二十三分新得駅に着き、松本伝教者の出迎えを受ける。
午後二時頃福井神父も現れ、三人ともに人舞村(当時新得、十勝清水一帯を人舞村という)の開墾地に四戸を訪問する
(宮城県原ノ町教会から来住したパウエル佐藤勘吉兄等)。
路はなく家と家とは半里もしくは一里も離れている。
しかし、無事訪問を終わり午後六時五十二分発の汽車で帯広に着き教会に泊まる。
10月1日 (帯広)五戸の信者を訪問。午後、婦人聖書研究会に臨み、四時より刑務所の役人を五戸訪問。
10月2日 午前中二戸を訪問、二里あるいて音更村水越村長その他、三戸の信者を訪問。
10月3日 午前祈祷、記念撮影、立花兄宅で病者平癒の祈祷をする。
10月4日 午前十時止若(現幕別)に着き、二戸を訪問。釧路より議友壁谷、梅森の両兄迎えに来る。
午後三時五十二分止若発、十時頃釧路着。夜中にもかかわらず、七十余人の信徒出迎える。教会に泊まる。
10月5日 信者訪問。晩、壁谷兄の宅で演説会を開く。
10月6日 雨のため訪問を中止。
10月7日 早朝より春採・昆布森・桂恋方面の信者訪問、往復八里を徒歩。
10月8日 釧路の信者訪問終わる。
10月9日 (土曜日)朝パニヒダ、墓地に至り“リティヤ”を行う。晩、祈祷及び説教。
10月10日 (日曜日)朝、洗礼、領洗者七名、参拝者約百名。記念撮影、議友会開会。

 当時、釧路では教会の「草創者」アンティパ藤原兄が明治40年3月永眠し、議友長ペトル坂本(現帯広市在住のイオアン坂本謙兄の祖父)、議友パウエル壁谷、ティモン梅森、パルメン伏見、フェオドル中居兄ら、信徒戸数49戸、信徒150名を擁する道東一の教会へと発展していた。司祭福井神父は根室に居り、釧路にはイアコフ猪野雅各副伝教者が在住していた。
 明治42年10月6日の釧路新聞には、セルギイ主教を次のように紹介している。
「東京駿河台のハリストス正教会主教露国人セルギイ博士は、本道各地の教勢視察の為渡道各地巡回中なりしが、一昨日帯広出発、午後八時五十八分着の列車にて当港へ来着、各信徒多数の出迎えあり待合室に於いて各信徒に挨拶あり、直ちに春採なる正教会に向かい目下滞在中なるが、便船次第厚岸を経て根室に向かうべしと言う。同博士は露国に於いて神学博士、哲学博士、文学博士の三学位を有しセントペータスブルグの大学総長たり、学界に貢献するところ尠なかざりしが、日本正教会の老僧たるニコライの後継者として大学総長たる栄職を抛ち、本邦に渡りたる人にして献身的の伝道なりと言う。」

10月12日 釧路より船で厚岸に着く。
10月13日 乗馬で貰人村(現浜中町モライト)に至り旅館に泊まる。
10月14日 落石宿泊。
10月15日 和田村より根室に二泊。

 落石には和田から移住した篤信のアキラ庄田一家がいるのみで、和田村も前述のように信者四散し、僅かにロギン狩野一家と二、三戸の信徒がいるに過ぎず、根室には管轄司祭福井神父、さらにこの年、ニコライ主教により叙聖されて赴任したセラヒム湊輔祭が、根室・標津・斜古丹を担当していたが、教会開設以来の信徒、イオアキム岡、ティト向井一家は不在で、フィリップ松本、イヤコフ丹羽の諸兄を中心に、根室町その付近の村落を併せても20戸ばかりの信徒で昔の面影がなく、セルギイ主教の竜顔も晴れなかったと思う。標津教会もイオアキム佐々木、イオアン山内一家は既に無く、フィリップ伊藤兄を中心に標津・羅臼村を併せても信徒戸数6戸、信徒数21名を数えるにすぎなかった。主教は福井神父を同伴し、根室より別海村(一泊)、標津村(信徒訪問、一泊)を経て羅臼村(信徒訪問、一泊)より海路小樽丸で斜里に下船し、その地の信徒を訪問されて、22日早朝、網走に着港される。以下『網走正教会会事誌』により当時の状況を述べる。
「十月二十二日早朝、郵船小樽丸で日本正教会主教セルギイ閣下、福井司祭を伴い入港なさる。アレキサンドル氏家兄、高橋伝教者は波止場まで御出迎え申し上げ、当会(中通り六丁目十八番地)へお着きになったのは午前八時三十分。暫時御休息後、大曲監獄の官舎にイオアン岡本兄を御訪問、次いで在監中の囚人某を親しく御訪問あそばされる。
 その後、市街の兄弟宅を御訪問、祈祷と説教を為さる。翌二十三日土曜日午前、パウエル鳥居兄に洗礼機密を授けられ午後、兄弟等の案内でオショップ(現網走市鱒浦)にイオアン東海林兄を御訪問。夜、スボタ祈祷後<主爾の神を愛せよ又爾の隣を愛せよ>と約三十分間御説教なさる。二十四日主日には早朝より祈祷、痛悔者・領洗者に聖体を授けられ、終わって当会庭前に於いて主教閣下と福井神父は旅装を整え、乗馬姿で信者一同と記念の写真撮影をなされ、直ちに野付牛に向かって御出発、当会信徒一同別れを惜しむ。馬上の黒帽、黒衣の御姿は今も目に生々しく残っている。」
 24日は野付牛、翌日は湧別に一泊して信者を訪問、27日、紋別に一泊して遠藤兄を訪問され、29日は雪のため、上興部への訪問を取りやめ、夜、定期船で小樽に向かう。
 道東だけで約一ヶ月、船と駅逓の馬での巡回、しかも軒毎に信徒を訪問され、彼らの信仰の飢餓を癒されたことは、当時の正教徒を痛く感泣せしめたことと思う。

  

三 釧路新聞の論説と教役者

 明治42年10月6日付の釧路新聞に、現今では論説ということになるが、一面のトップにハリステアニンにとって痛切肺腑をつくような文章が載っている。文章としては難解でないので次に原文のまま要点だけを再現する。

「…然して博士来道の目的はもとより伝道にありといえども、むしろ普通の伝道といわんよりは、伝道の為にする信者の健康診断なりと言うをもって適切なりとせんか。…日本におけるハリストス教の現状は如何。信者の数はもって幾万も数うべしといえども、その活動に見るべきもの果たしていくばくかある。記者は必ずしも新教一派のごとき華々しき活動をもって宗教家の誇りとはなさず、しかも今のハリストス教徒のごとき催眠状態にあるをもって宗教家の本領なりとするあたわざるなり。これについては様々の原因あらん、色々な動機もあらんか。なれども記者の私見をもってすれば、今のハリストス教会に属するいわゆる教役者なるものに元気の存在せざるその一なり、彼ら教役者はその数幾百を数うべし、しかしてよく元気と希望をもって愉快に活動する者果たして幾人を数え得るか。彼らの多くは生活難に苦しめられ、生活難に苦しめられる結果は安んじてその職に従事するあたわず、煩悶、懊悩、自ら神の存在を疑う。かくの如くしてよく教役の任務を遺憾なからしむるを得るか、事実は全く正確なる審判者なり、顔色憔悴、意気枯槁(顔色はやつれ生気もない)せる教役者の生活は果たして何を意味し何を語るべきか。
 もちろん肉に死して霊に生くべきはクリスチャンの理想ならん。しかも現在の生活において果たしていくばくの実現を営み得べきか。周囲の条件はますますこの実現をして困難ならしむる今日において、クリスチャンの生涯を送らんは決して容易の事にあらず、この容易ならざる生活を容易に送らんとす、もとより健全なる戦闘力を要す。しかしてこの戦闘力は神人相愛の信仰すなわちこれなり。教役者はこの信仰の手引者なり取次人なり。ただに取次人手引者たるのみならず、またよく信仰の成育を助成するの援助者たり保護者たるべからず、しかも教役者の元気今日のごとくんば、果たしてよくこの奮闘に耐ゆるを得るか。記者はハリストス教会に縁故を有するが故にこの苦言を為す。」

 当時の釧路新聞の社長は白石義郎氏である。氏は東白河町出身で伝教者斎藤師と同郷であり、斎藤師は一時、釧路新聞社に籍を置いている。二代目社長は遠藤清一氏で、氏は大正4年、14年とセルギイ主教の来釧を詳しく紙上に載せている。大正7年に辞職した猪狩新造輔祭も氏によって釧路新聞社に勤めており、いずれにしても当教会とは縁故があったのであろう。
 これより先、39年の公会においてニコライ大主教は、「伝教者の生活の困難は果たしてどれほどであろうか。十円、十二円或いは十四円の給料で彼らの子供三、四人或いは四、五人もある者はどの様に暮らしているのか、むしろ不思議にさえ思われる。その困窮いかばかりか。然るに本会はこれより以上給する事は出来ず、既にその財源は底をついている。<中略>見よ我らの主はその門徒と共にどの様に暮らしたであろうか。主はその門徒と共にその献金で養われたのではなかろうか。使徒らも常にこれをもってその規則としたではないか。主は門徒らに告げて言えり『なんじら行きて天国は近づけりと告げ、彼らに平安と言い、その後止まって飲食を得よ』これ、主の立てられた規則なり<後略>」と意見を述べられている。
 伝教者の貧困について、中村健之助氏訳『明治日本とニコライ大主教』の中にある遅澤栄二長司祭の思い出の一節を引用してみる。
「明治四十一年の公会決議により、私は徳島教会より東京府下の八王子教会へ転任しました。その時、長女が生まれましたが信者の数も少なく、月給十五円では生活費が足りないので本会に行き、少し増加して下さいとニコライ様にお願いしましたが、それは出来ないとの事でしたから私は教会を止めますと申し上げ本会を去りました。四十二年八月と記憶している。」とある。
 四十年の公会も財政問題に尽き、結果として教役者を40人余も減ずる決議となったことは前述の通りである。この公会でニコライ大主教は、日本教会の経済的独立のために(あるいは教役者の生活扶助のためというのが適当であろうか)次のようなことを提案している。
「信徒をして常に教役者を養うの心を養成せしむること甚だ肝要なり。昨年来、長司祭(三井師)は各教会を巡回して教役者に月費を加うることを勧めたるもさまで利益なかりき。然し幾分にても教役者を助くること肝要なれば司祭らもこのことを謀らざるべからず。今度はこの献金のことを計るらめにワシリイ山田をして各会を司祭と共に巡回せしめ、献金のことを相談し、規則を立て、会計を選びてそのことを担任せしめば如何。」
 このことについては、時期尚早であり、また信徒がこれ以上供給費を負担することは無理であるとの発言があり、結局は成立しなかった。この時、柴山司祭の意見に「本年は教会財産の不足を聞いたが、このことは早晩必ず出てくる問題であり、これは日本正教会が年毎に大いに発展する吉兆であると思う。我々伝教者などは金銭のことなど余り心配もせず、ただ働きさえすればよいと思い、金銭などのことは勧めもせず、またそのようなことは熱心にもしなかった。これは、我々小児の時からの習慣で、金銭のことなどを云々するのは武士の恥辱であると思っていた…今日まで我々は、信徒が金を出さんとするも出されざるような働きを為していたのではなかろうか…我々が自ら己を修養して熱心に勤めるならば、自ら訴えなくとも信徒は必ず我らを助けるであろう。信徒は教役者に供給することを少しも苦痛に思っていない<後略>」とあるが、これも明治の教役者の気構えであろうか。三井長司祭も次のように発言している。
 「我々教役者が克己献身の心を持ち、困難を忍んで働くならば信徒もかならず教役者を助けることであろう。我々が教役者の本分を尽くさなくては信徒も助力しない。我々が克己献身の心をもって働かなければならない。昨年来、私は各教会を巡回したが、いつまでも露国教会の世話になっていることは出来ず、日本正教会は独立しなければならぬと勧めて来たが、信徒はよくこのことを承知し、供給のことに不服を言う教会は一箇所もなかった。」
 明治41年の公会では、教役者の待遇の改善が神品会議で決まる。大主教は「本会には増額の資金がないので地方教会でごの増額を実行されたい。この増額の必要なことは余も急務と認めます。本会にこれを増額する道はないので、諸神父宜しく地方教会と相談なされ。」と言われている。
参考のため明治21年の月費と比較して決議内容を挙げる。

伝教生月費 副伝教者月費 伝教者月費 輔祭月費 司祭月費
明治21年 8円 10円 12円 15円 20円
明治41年 15円 20円 25円 30円 50円

 実際には、地方教会の増額は決議内容には程遠い数字だったと思う。
 試みに、明治40年度公会議事録に載った各教会の供給金に触れてみる。それ以前は微々たる金額であったが、釧路教会は26円、根室・和田教会はあわせて26円、標津・10円、網走・40円、帯広教会は16円を供出している。明治41年度のそれは、釧路教会(管轄教会の供出計)は198円、司祭・伝教者は5名である。月費にすれば16円50銭である。仮に、各伝教者に3円の補助とすれば、司祭に対する補助は4円50銭である。前述の遅澤伝教者に対する本会からの月費は15円で、司祭のそれは25円ほどであろう。それに地方教会の補助金を加えても伝教者は18円、司祭は29円50銭に過ぎない。明治41年度札幌教会の供給金は571円で、司祭以下6名の伝教者を抱えている。そこにも教会の貧富が現れている。
 釧路管轄の内の教会としても、その後の供給金については供出できない教会も出始めるが、釧路教会は年々その供給を増し、管轄内の主体教会となっている。
 ニコライ大主教御生存中に、主教座下念願の経済的自立は出来得なかったが(自給出来た教会もあった)その後の日本正教会に座下の御遺志が脈々と伝わっている。
 日露戦争後の日本正教会にとって、明治39年、40年は大きな曲がり角の年である。釧路新聞の論説は、その虚を突いたものであろうか。
 しかし、当時の釧路新聞の論説が世相に映し出された我が教役者の姿であるとすれば、何と悲しいことであろう。主の「なんじら行きて天国は近づけり…」と言う御言葉を思い起こし、「教役者と信者の間にあるべき相互の思いやりをもって両者が教会の事業に向かっていないから、教会の事業は順調に進んでいない。そのために各地の教会は、はかばかしくなく、まるで半分眠っているような状態である。信者が物質的に援助し、それと共に心からなる同情と親切と助言をもって教会の事業に参加し、それに対して教役者が心からなる感謝と愛情をもって応え、精魂を傾けて自分の務めに生き生きと取り組んでいったならば、事態は全く違ってくるであろう。火打石と鉄は並べておいても火花は生じない。二つを強く打ち合わせない限り火花は生じない。打ち合わせ火花が生まれ、火がつき、明るい光が輝く。」というニコライ主教の信者への回状(中村健之助訳『明治日本とニコライ大主教』による)より「教会とは?」「教会と信徒はどうあるべきか?」について、我ら自ら常に問い続けるべき問題ではなかろうか。 

  


第7節 釧路正教会道東の管轄教会となる

一 福井神父根室より釧路へ移る

 前述したように根室町の人口流動はげしく、釧路町は道東経済の中心となり、また交通の要衝として発展を続ける。人口を見ても、明治42年には根室町の1524戸13689人に対して、釧路町は4493戸21071人となっている。また、教勢も42年7月公会議事録には次のようになっている。

釧路 42戸 138人
根室 17戸 68人(和田を含む)
標津 6戸 21人
斜古丹 9戸 25人
帯広 21戸 120人
網走 22戸 49人

 福井神父は、セルギイ主教が神父の管轄内を巡回された後(10月18日で主教巡回終了する)釧路へ転任する予定であったが、たまたま東京本会から斜古丹への巡回を命じられた(セルギイ主教は斜古丹への巡回が出来なかったためであろう)。しかし季節は初冬11月、北海の怒涛は福井神父を拒み、師にとっては命がけの航海となった。
 時化の最中、師の乗った船は(通常7,8時間、73kmの航路)狂瀾怒涛に翻弄され、斜古丹に上陸することが出来ず、十数日間も船中に閉じ込められ、命からがら上陸し、信徒を訪問することが出来たほどである。当時、師が根室教会管轄内を巡回する時は網走へは船を利用し、美幌・野付牛へは駅逓の馬に揺られ、紋別・湧別へは船を、また、釧路・厚岸にも船を利用し、帯広へは釧路から汽車を利用していたようである。陸路、網走への巡回には標津を通り、斜里山道を越えて越川・斜里・藻琴を経由して網走へ入っている。ぬかるみの湿地帯、強風や豪雨に身体の芯まで寒気が徹り、また荒漠たる人気のない原野、鬱蒼と巨木が茂る森、或いは熊の咆哮におびえる陸路の巡回、海陸とも現代の我々には想像もつかぬ苦難の巡回であったと思う。
 福井神父は明治42年12月25日、海路、家族一同釧路へ安着し、ここに釧路教会は名実ともに道東の管轄教会となる。

二 釧路会の発展

 前述の明治42年10月6日付の『釧路新聞』の論説は、当時の信徒に相当な動揺を与えたことであろう。当時の新聞が教会に保存されていることからしても想像に難くない。しかし、それにも増して明るい建設的な話題がある。議友パウエル壁谷光雄兄の健闘である。
 すなわち、42年の10月から12月にかけて名刺事業を開始したことである。釧路在住の信徒は教会を挙げて代わる代わる事業に熱心に奉仕し、12月中に予定の事業を完了、その利益で10円の債券を購入して基本財産に加え、5円は教会費として寄付した。これは当時の執事パウエル壁谷兄が教会発展策として生産的事業を企画し、熱心誠意全信徒に呼びかけた賜物である。兄は当時、釧路鉄道事務所の庶務、出納、運輸の三課長兼任の要職にあり、また釧路教会の執事として全信徒の敬慕、信頼を集めていた。日本正教会は、前述のように露国より伝道資金が途絶えがちとなり、経済的独立を余儀なくされており、釧路教会としても自立(自教会の教役者への供給)が至上の急務であった。そのような中で、わずかながらも教役者への供給が実現し得たことは、兄の努力に負うものである。惜しむらくは、兄は志半ばで42年11月9日付けで岩見沢へ転勤となったが、議友梅森、片石の両兄がその意志を継ぎ、年1回ないし2回の名刺事業を継続し、教会事業として全信徒一丸となって教会財政に貢献している。名刺事業に限定したことで、何時まで続いたかは不明であるが、43,4,5年と教会財産が増加していった事実がある。
 当時、アキラ高橋三蔵伝教生(明治41年に釧路へ着任)が網走教会へ転任し、イヤコフ猪野雅各副伝教者が42年8月に釧路へ着任している。猪野師は一冬、釧路で過ごしたが病を発し、43年の公会で内地転任を希望する。福井神父は公会で次のように猪野師について説明している。
「猪野の身体は、寒気厳しい釧路の気候に合わないためであろうか、4,50日教務を休み、気候に合わないと自ら思い込み鬱々と気を腐らせている状態であり(中略)。釧路のためによい伝教者がいれば猪野の願いどおりにしてやりたいと思う。」
また、釧路教会からもペトル坂本、パルメン伏見の連名で「伝教者1名増加派遣の件」の請願が出されている。
 この公会で伝教者配置の都合がつかなかったのか、この請願は通らず、猪野伝教者は秋に入るや病に勝てず辞職して内地に帰る。釧路教会は44年の公会まで伝教者不在となる。猪野師も悲しい犠牲者の一人である。釧路の寒気、春夏の濃霧、家々のストーブから出る排煙が小雨や霧と混じって道行く人を襲い、人の五臓六腑を冒すものである。
 この年、後志から副伝教者イサイヤ関藤右衛門師が釧路へ着任する。
 福井神父が根室から釧路に居を移して以来、釧路の教勢は大いに伸びている。明治42年度の領洗者は30人、43年度19人、44年度には信徒数41戸153人を数え、領洗者18人と記録されている。当時、教会(伝教者)の担当区域は釧路市街を中心として春採・桂恋・昆布森等であるが、神父の管轄は、東は色丹・択捉・国後・根室・和田・標津、北は網走・野付牛・常呂・湧別、西は帯広・新得にまで及び、千島を除いては現在の釧路教会の管轄とさほど変わりない。
 明治45年の公会で、釧路教会信徒総代ワッシアン鈴木他6人より「釧路へ伝教者1名増遣」の請願が出されたが、この請願は通らず、釧路のイサイヤ関師は斜古丹へ、釧路には副伝教者ナウム山内封介師が着任する人事となる。山内師は、根室の和田に屯田兵として入植した福岡出身のイオアン山内亀雄兄の弟である。明治30年に標津で福井神父によって授洗され、その後、神学校に学び、再び伝教者として来釧した人である。
 この年2月、ニコライ大主教永眠し、セルギイ主教が日本正教会の統理主教となり、また7月、明治天皇崩御し時代は大正へと変わる。

  

三 根室会の衰退

 根室町は数年来不漁が続き、根室教会設立以来の議友イオアキム岡兄もその商売に失敗し、明治43年6月に北見国に再起を求めて美幌へ、同じく議友ティト向井親子も前後して北見国野付牛へ移住した。その他の官吏、会社員等の信者も不景気のため四散し、残るは少数の貧弱者ばかりとなり、いずれも生活に追われ、教会へ参祷する人も少なく、スボタ・主日のセラヒム輔祭の祈祷もただ、壁にこだまするばかりと思われる。根室教会の当時の様子を、セラヒム湊輔祭が明治43年2月号の『正教新報』に次のように報告している。
「当根室教会は毎年不漁の結果、住民の他所へ移転する者多く、従って信者間にも移住者多く、あれほど一時、隆盛を誇った当会も次第に衰退し、福井神父御移転後の今年の大祭(当時の降誕祭は露暦により1月)もどうなるかと心配しておったが、イアコフ丹羽兄とフィリップ松本兄の尽力により、あるいは少年たちに聖歌の練習を勧めたり、さらに各信者を熱心に説いて回った結果、当日の大祭には35,6人の信者と若干の未信者が集まる。祈祷・説教が終わった後、祝賀会を開く。男女少年5人の祝辞に始まり茶菓の接待、余興や福引等あり和気藹々裡に日没頃終了した。」
 この文中にもあるように、根室会は衰退の道を辿り、大正中期にはその会堂も姿を消す。

四 網走会教勢の伸展

 根室のイオアキム岡兄について『網走正教会会事誌』に「明治43年6月10日、福井神父春季巡回として、釧路よりサレラ斎藤姉、根室よりイオアキム岡兄家族を同伴して御来網なさる。」とある。岡兄は根室教会創設以来の尽力家で、大火後、根室に教会が建ったのも兄の努力の賜物である。岡兄は根室より新天地を求めて美幌市街地に雑貨商として再起を図る。
 兄は事業のかたわら北見の農業に着目し、広大なる未開地原野の払い下げを出願する。その計画が許可になり次第小作人を募集、開墾せしめ、伝教者に依頼して彼らに布教し、将来はこの地にハリストス正教信者の一大集落を作り、大いに教会の発展を図るという遠大な計画であった。しかし、この事業も成功を見ず、大正5年ごろ釧路に引き揚げ、メトリカに代父として名を連ね、その後、郷里の現香川県丸亀市広島町江之浦へ帰り、その地で永眠している。
 当時の伝教者はアキラ高橋師である。師は明治45年の公会で「内地転任希望」を請願し、陸前国築館教会へ移る。後任としてパウエル小川師が斜古丹教会より着任する。
 教会は南通り5丁目28番地にあり、ダニイル田中、アレキサンドル氏家兄が議友として会事に尽くし、野付牛にティト向井親子その他、常呂・湧別・紋別にかけて信徒41戸105人が点在し、福井神父の巡回を熱望していた。この年の秋、新得からパウエル佐藤勘吉兄他五家族が斜里原野に入植し、ここに『網走正教会会事誌』に新たな、輝かしい一頁が付け加わることになる。

五 斜古丹会事情

 明治39年の公会で斜古丹教会に赴任したフェオドル斎藤師が40年10月に伝教者を辞任して以来、斜古丹教会は司祭直轄となる。42年からセラヒム湊輔祭が根室・和田・標津・国後・択捉・斜古丹を兼任し、いずれも専任の伝教者が置かれなかった。従って、40年(この時は留任)の公会以後、斜古丹教会から毎年伝教者派遣の請願が出されている。
 明治43年5月、福井神父は斜古丹教会へ巡回する。その時の様子が『正教新報』に次のように報告されている。
「格別変わった事はないが、唯該島在住の僧侶が我が伝教者不在を好機として、様々な手段をもって原住民を誘惑して困っている。議友等も公会で是非とも伝教者を派遣して欲しいと切望している。同会に於ける痛悔者、領聖者は34名で、メホディ宇良田がスボタ・主日の祈祷を務め、アントニイ島本議友はよく教会会事に熱心に尽力している」
 前述したように32年頃仏教大谷派が島に進出し、僧円心が先住民を大いに誘惑し、ヤコフ首長〔明治35年永眠)を怒らせ、我が正教会もモイセイ湊、マクシム小畑、フェオドル斎藤師らを派遣して先住民を教化した。フェオドル斎藤師が在島していた頃(明治39,40年)師は新報に次のような報告を載せている。
「当地に東本願寺の派出寺があり、一名の僧侶が居住しているが、寺院としては有名無実の状態であり、村民は我が教会をヤソ寺と言い、降誕,復活の大祭は村の祭りとして、戸長・筆生・小学校教員・村医及び村の有志等も参列している」
 我田引水の感なきにしもあらずと思うが、彼ら先住民は祖先以来正教会の信奉者で、神父、伝教者に忠実であったが、酒には目がなく男女とも酒は大好物であり、また彼らが日本化するに従いヤコフ首長の死後、首長の権威も振るわず、僧侶の酒の供応の誘惑に負け、伝教者のいない教会に参祷しなくなったのではないかと思う。
 明治43年7月の公会に斜古丹教会アントニイ島本、アウェルキイ・プレチン、メホディ宇良田議友名で「伝教者一名派遣請願の件」が出されている。これについて福井神父は次のように説明している。
「色丹島には伝教者がいなかった。是には伝教者がいなくともよい訳があった。色丹島の島民の多くは北千島に狩猟のため出稼してその間、同島は不在になる。しかし、根室支庁は島民を色丹に引き揚げる事にした(前述のように43年より北千島出稼停止)。彼らは祖先より立派な正教信徒であるが、目下大いに同情すべき事情があり、今年は是非一名の伝教者を派遣される事を希望する」
 この公会で復職したパウエル小川副伝教者が斜古丹教会に配置され、同45年に師が網走へ転任後は、この島で永眠した伝教者イサイヤ関藤右衛門師が釧路より配置される。
 福井神父の報告にメホディ宇良田、アントニイ島本の日本人議友が出ているが、古くは明治19年、小松神父によって受洗したサワティ村田兄が、神父及び先住民の信頼厚く会事に尽力していた。その後、移住した日本人も伝教者の熱心な宣教により信徒となる。
 明治40年2月の『正教新報』にフェオドル斎藤師は、斜古丹教会信徒の構成について次のように述べている。
「斜古丹教会は原住民六十余名と、ほかにアイヌ人一名、内地人十数名より成立せる教会にして(後略)」とあるように和人の信徒も加わり、その中には議友として会事に尽力し、先住民の大部分が北千島へ出稼中は残留の先住民と共に教会を守っていたのであろう。
 さて、明治43年に北千島への出稼が廃止されてからは(旧土人保護法が適用されていたが)彼らは定職を持たず、僅かな漁業権、自家用野菜を自給する程度で、夏期、太平洋岸で海草採集が唯一の生業となる。彼らは移住以来、斜古丹湾に臨む地に集団生活していたが、海草採集が主たる生業となってから、夏の期間は出稼の関係もあり『色丹歴史年表』にあるように、終戦前は太平洋沿岸にも分散定住するようになった。
 また、明治43年、時の支庁長安倉高保氏が色丹島視察の際、先住民から氏名改称の願出があり、その後、苗字が設定されている。大正に入ってから公会議事録の請願には、アウェルキイ美島(アウェルキイ・プリチン、日本名美島信議)プロコピイ寿山(プロコピイ・チェルヌイ、日本名寿山民平)等日本名の苗字が聖名に続き、先住民の氏名も逐次日本化していく。
 根室支庁浅野属の『色丹土人に関する調査』によると、大正3年11月末、現在の礼拝堂竣工、共同金より425円30銭、教会積立金(彼ら住民の蓄積金)から42円10銭1厘が支出されると具体的に記されているが、残念ながら福井神父の成聖の記録がない。
 大正14年、道庁は特別撫育を廃止し、北千島出猟時における収益の余剰金、他の維持財産より半分を各自に配分して、共有の不動産及び漁業権と共に“ハリストス互助組合”を組織させ、村長を組合長としてその財産を管理させた。これは彼らに独立自営を求め、産業資金を融資する種族救済の自主機関として設置されたものである。
 しかし、その互助機関は彼らに機能するものではなくただ退蔵させるのみであった。生業は夏期の海草採取のみで家計収支が赤字となり、後年には組合からの負債に頼らざるを得なく、共同財産も逐次消費されていくことになる。
 明治31年、ニコライ大主教は色丹島に巡回なされたが、セルギイ府主教による明治42年、大正4年、大正14年、15年の道東巡回の際には、一度も色丹に彼ら先住民を訪問することが出来なかった。

六 千島先住民の人口衰退

 前述したように、明治17年占守島を出発した者は97名であったが、同22年、ティト小松神父が色丹島に巡回した時は63名、27年桜井神父の時は57名、モイセイ湊師が28年同島に越冬した時は61名、31年に加藤神父渡島の際の彼らの人口は61名となっている。鳥居博士が色丹島に渡島した明治32年の先住民の人口は男子25名、女子37名であり、しかも男子より女子のほうが12人も多い。彼らの人口の消長について高倉博士の『アイヌ政策史』より引用する。
「原住民の衛生に関しては当局も深く留意したところであり、17年、彼らの移住とともに根室病院派出所を設け、医員を置き、薬価・俸給等はすべて官費とし、21年該出張所を廃して村医を置き、住宅を清潔にし、入浴を奨励する等種々の方法をはかったが、一旦減少し始めた大勢は如何ともする事が出来ず、明治三十年代になって漸次増加の動きを示し、明治四十年には六十七名に達したが再び減少し始め、大正十一年以後は三十名を越えず、最近少し回復の勢いを見せているが、それでも四十一名に過ぎなかった(中略)。昭和八年七月の道調査によれば、男十二人、女三十二人の割りであり、しかも男は四十歳以上及び二十歳代の者は無く、三十歳の者が五人だけである。これらの男で結婚している者は僅か一人だけであって、しかも女で結婚の年齢に達した者は殆ど皆和人と結婚もしくは内縁関係を結んでいる」
とある。男12人、女32人と女性過剰である以上、和人と結婚することも種族保存上自然の摂理であろう。
 昭和6年に道の依頼で彼らの健康を調査した北海道庁白老土人病院長高橋博士の『千島アイヌとその衛生上の考察』で氏は次のように結んでいる。
「種族として千島アイヌの存在は既に終結に近づきつつあり、男性の激減と女性の過剰による和人との混婚によって混血児が続出し、所謂、千島アイヌの特徴とその血液は、いずれ失われるであろう。統計上、この千島アイヌの数字は尚若干の年月保持出来るであろうが、その内容は着々と和人化している事は止むを得ない事であり、またかくして、千島アイヌは和人の血と結合して、未来永劫に人類の繁栄に努力するものであり、この種族の将来は、日本人の血の中に永遠に流れ続ける事であろう」

  


第8節 新教区の画定

 大正4年の公会において、釧路管轄の教勢大いに伸び、福井司祭はセルギイ主教より賞賛の言葉を賜る。領洗者の数を挙げると、釧路教会10名、根室教会(和田・標津を含む)5名、網走教会23名、帯広教会4名、斜古丹教会9名、計51名である。その後も大正6年を頂点として教勢大いに伸び、特に釧路教会は信徒戸数71戸、信者数264名(伝教者はイオアン後藤忠七)を擁する道東の管轄教会として発展している。
 また、この公会で北海道に新教区が設定され、札幌・函館・釧路・旭川の4教区となった。すなわち、札幌の櫻井神父の管轄はなはだ広く巡回困難のため、寿都・黒松内より南の教区を函館の白岩神父の管轄とし、旭川・下富良野・山部・近文・奈井江・愛別・歌志内・砂川・北龍・深川・留萌・増毛・稚内・聲問(こいとい)・名寄(以上櫻井神父の旧管轄)・興部・諸滑(しょこつ)・紋別・瀧ノ上・沙留(以上福井神父の旧管轄)等21箇所を新教区とし、涌谷教会よりワシリイ薄井忠治司祭を旭川に迎えて新教区を設定している。大正11年、薄井司祭の転出により、小樽のイグナティ岩間司祭が札幌を兼任、翌年には管轄区域が大正4年の旧管轄に復した。その後、多少の曲折があったが、昭和2年、札幌の大木司祭が鹿児島教会に転出し、小樽の岩間司祭が札幌に入り、ここに、北海道は再び大正4年の札幌・函館・釧路の旧管轄(三司祭)に復した。


第9節 セルギイ主教の道東巡回

 大正4年の公会後、セルギイ主教御来道し、函館・札幌・岩見沢・旭川を経て9月20日より帯広・釧路・網走・斜里と各地の信者を軒別訪問され、彼らの信仰を励まし、10月1日に斜里より函館に直行帰京なされた。当時の道東正教徒の歓喜、信仰の熱意、主教の宗教上の名声を『正教時報』『釧路新聞』より要約、引用する。
 セルギイ主教は、9月20日より21日まで帯広に滞在され、その間、信徒を戸毎に御訪問、献祷、記念として聖像を下賜される。21日には教会で主教座下臨席し、福井神父が洗礼祈祷(小児4名)、聖体礼儀代式を行う。また主教座下には信徒の願いにより、帯広教会の創立に尽力した故モイセイ鈴木、議友イオアン小田島兄の令息のために教会で「パニヒダ」を献じている。当時の帯広が町を挙げてセルギイ主教をどのように歓迎したか『正教時報』より引用する。
 「九月二十日いよいよ大師は来れり、此日天気晴朗一点の雲なく近来稀に見る好日和。信者の男女は申すに及ばず十勝教育会幹事支庁長代理(支庁長不在)、学校長、十勝青年会幹事、十勝日日新聞主筆、該市街の有志は朝野にある者皆来集し、セルギイ主教閣下の来臨を奉迎せんと待ち居たり。やがて零時二十八分閣下御搭乗の列車は着せり(後略)」
とある。また、21日午後7時より十勝教育会主催の講演会に御出席なさっている。この時は早朝より雨がやまず、ことに講演会定刻前後の豪雨にもかかわらず、6、70名の人々が集まる。演題は「教育と宗教の関係」であり、この中で主教は、最近進歩したる学術と宗教とは相反するものでないことを、旧約聖書の創世記を引用して延々2時間の大講演を行い、信者をはじめ他教会の牧師・僧侶・記者・教育者に深い感銘を与える。
 22日、セルギイ主教は、人力車で停車場に至り、信者ならびに教育会幹事森氏、十勝日日新聞主筆白井氏の見送りを受けられ、午前8時6分発の列車に御搭乗、途中、止若(現幕別)に下車し、篤信家イオアン笹井兄宅を訪問され、午後1時8分発の列車で福井神父を同伴して釧路に向かう。
 釧路。セルギイ主教の来釧を、大正4年9月22日付『釧路新聞』は次のように報じている。
 「・セルギイ主教の来釧
 ハリストス正教会主教セルギイ博士は、本夕六時七分着の列車にて帯広より来釧、明二十三日及び明後二十四日の両日滞在の上、講演及び信者の戸別訪問を為し、網走方面に向かう予定なり」
とある。また、翌日は 「セ主教信者慰安の為の来釧」 という見出しで写真を掲載し、主教の略歴、巡回の目的等を詳細に報じている。この時既に、網走教育会よりの講演依頼を報じている。セルギイ主教の宗教家(新聞は座下を神学・哲学博士として報じている)としての名声、道東に響き渡ると言っても過言ではない。
 セルギイ主教は、23,4日と福井神父、後藤伝教者、デミトリイ勝水、フェオドル中居議友を、あるいはペトル坂本議友を同伴し、市街地の信徒を戸毎に御訪問、献祷、聖像を御降福なされ、遠く山道を越えて桂恋(8キロあり)の信徒を御訪問、それより数尺の草茂る間道を歩まれ、春採のワッシアン鈴木議友宅を訪問される。この時は付近6戸の信徒がワッシアン宅に集まる。主教の献祷、かんたんな説教あり、聖像を各戸に御降福され、彼ら信徒をいたく感激させている。
 23日の晩課祷、24日の秋季皇霊祭には主教座下みずから祈祷を献じ、終わって信徒一堂は主教を中心にして記念撮影におさまる。
 講演会。主教座下には釧路教育会の懇請をお受けになり、公会堂において24日午後7時より講演なさる。長講2時間、言語流暢、熱勢溢れ、立論明晰、その博識、また崇高なる人格に席上声なく一同終始襟を正して聴く。この夜の集会者は、宗教家、教育者、諸官庁吏員、町会議員及び町の有力者無慮三百余名とある。26日付の釧路新聞の原文をそのまま再掲する。
 「セ博士の講演 聴者三百余名
 釧路教育会釧路部会主催のハリストス正教会主教の講演会は、既報の如く一昨夜七時より公会堂に於いて開会せしが、聴衆三百余名に達し、金支庁庶務主任、吉井会長(支庁長)に代わり開会の辞を述べ、次いでセルギイ主教壇上に現れ、流暢なる日本語を以て、宗教と教育との目的に就き、両者は往々相反する如き傾向あるも、そは大いなる誤謬なりとして教育の目的も、宗教の目的も帰着点は共に信を得るにありと説き、次いで旧約聖書の創世記第一章を詳細に論じ、学問上の論議と相一致せるを説き、教育と宗教とが全然同一の目的の為に働き居るものなりと論結し、聴衆に多大の感銘を与え午後九時二十分閉会せり」
とある。
 25日には信徒一同、支庁の金、教育会の晴山、木山の諸氏、町有志者ら7、80名の見送りを受け、午前8時40分の列車で福井神父を同伴して網走に向かう。途中、池田・足寄・陸別に下車してその地の信徒に降福を賜る。
 網走。主教座下御一行は26日9時45分網走駅に御安着。この時のことが大主教座下の名著『十二位一体の聖使徒』の序文に次のように記されている。
 「わたしの乗った列車が網走駅に到着した。余りの意外さにただ驚くのほかなき光景がわたしの眼前に展開された。わたしの信徒の一部が教会の旗(白地にコンスタンティン大帝の用いた略字XPを配した十字架を赤く染めだした)を押し立てて、わたしを歓迎した。それだけでなく、ここにもまた聖公会の信徒(この中にアンドレース師、林牧師、同会の青年会全員が含まれていたのであろう)が紫色の旗と十字架を掲げてわたしを迎えた。他の新教徒もその中に混じっていた。かくして一同は列をなして大通りを進んで行った。さながら十字行のようであった。一行は聖公会の礼拝所に達した。(現南六条東2丁目、駅より500メートル)みると、そこには既に正教会の聖像も安置されてあった。異教人も多数いる。説教を述べて会衆に<訓誨をあたえるように>との希望であった。しかも此の場合聖公会の叙聖の合法性を論じたり<信仰と実行>の問題について争ったりするのに、わたしの舌が意のままに動くであろうか。いや、聖神はわたしの心に命じ、ハリストスを信ずる総ての人々の一致団結した家族のために有益なることを述べさせたのである。こうして一時間半にわたるわたしの説教を網走町に於けるハリストス教的統一家族の総ての子等が聴いたのであった。しかも、神聖なる敬虔の心をもって聴いたのである。そして感謝の意を表してわたしを送ったのであった」
なんと感激的な胸打たるる光景ではなかろうか。
 我が正教会の会堂は、網走町南裏通り5丁目28番地にあり、普通の民家で聖公会とは場所的にも近く、信者同士にも親交があり、互いに行き来していたようである。アンドレース師や林牧師の友好的な配慮によるものであろう。この後、主教座下は福井神父を同伴し、十字堂ダニイル田中兄(釧路教会信徒故シメオン田中良平兄の尊父)宅に投宿なさる。
 前述したようにこの年、教区変更があり、紋別以北は旭川教区に編入されたが、網走教会は伝教者パウエル小川師のもとで教勢著しく伸び、信徒55戸、192名を擁し、この年の復活祭には六十余名の参祷者があったほどである。領洗者も大正4年、23名、同5年には34名となっている。セルギイ主教の御来網は、議友長ダニイル田中兄はじめ、全信徒の信仰をいかに鼓舞されたか想像に難くない。しかも、この時に斜里初代の会堂成聖が行われるのである。以下パウエル小川師がみずから投稿された『正教時報』より要約、あるいは引用して当時を偲んでみたい。
 27日。午前7時より一里弱の網走監獄官舎に信徒7戸、御帰会途中、故アレキサンドル氏家(網走教会創立功労者)ほか2戸を訪問。御祈祷、親しく戸毎に小聖像を降福なさる。御帰会後、主教座下には信徒一同の歓迎会の午餐に御出席、座下も聖十字架祭当日の齋を解かれて信者とともに赤飯・煮しめを召し上がり、食事半ばお起ちになり「これは初代教会の美風を偲ばれる愛の午餐である」と賞賛あそばされる。
 午前2時より聖公会長老アンドレース師に御答礼のため、当会より半里ほどの同師が試験的創設の現工事中の修道院を訪問される(修道院は大正5年にアンドレース師が帰英を機に閉鎖されている)。
 この時、網走公園予定地で待ち受けていた写真師イアコフ吉田兄が、主教と当時の信徒を撮った写真が今に残っている。
 午後より聖十字架祭の略祷は福井司祭によって献ぜられる。片田舎の教会で、詠隊至って淋しく、小生(小川師)は内心危惧を感じていたが、主教座下の美声に助けられる。その後、主教座下の御説教、子女らにもわかるよう、懇ろに天主経を講義なさる。玉音一言一言、信徒の胸底に深い感銘を与え、また新約より種々なる御教訓を物語、彼ら群羊ひとしお心洗われ、新たなる霊糧を分与され、感激に時の移るを忘れるほどで、主教御帰宿午後10時となる。
 28日。早朝より市街及び付近所在の信徒6戸を御訪問。
 午後7時より聖公会青年会主催の公開講演会に出席なさる。演題は「宗教と倫理の関係」であり、座下の広範な知識、その崇高な人格に百余名の聴者は、1時間40分に及ぶ主教座下の大雄弁に一人として退席する者はなく、深く感激し、閉会後、異教徒である町の有志家、裁判所の山口検事、田中校長らは福井神父を介して座下に御挨拶なされたほどであった。
 29日。午前7時、信徒一同、聖公会の林牧師、アンドレース師、山口検事らに見送られ、主教座下には斜里教会に向かわれる。主教座下、福井神父、小生(小川師)の三人なり。教会の議友フェオドル荒野兄が自家用の駄馬に行李運送を引き受けて従う。また、昔のガリレヤの女徒のごとく、キセニヤ工藤、アキリナ荒野、マトロナ田中姉ら3人は、座下に別れを惜しむあまり、ニクルバケ(現藻琴)のタラシイ森谷兄(現釧路教会ウラシイ森谷栄喜兄の祖父、大正3年の春に福井神父より一家受洗)宅まで見送る。
 午前9時頃タラシイ森谷兄宅に着き、付近より集まった女徒らに降福を賜る。この時、森谷兄は自慢の西洋西瓜を御菓子にと出され、座下ことのほかお喜びの上召し上がる。タラシイ森谷兄は、収穫期の繁忙にもかかわらず、長男フェオファン勇兄に二頭立ての馬車を支度させ、主教一行を8里の行程斜里会堂まで送る手配をさせる。4里進み止別駅(止別村小清水駅逓であろう)で休息中、根室国標津村のフィリップ伊藤兄が険阻な斜里山道を越え約19里、はるばる単騎で座下をお迎えに来る。これより騎馬と馬車相前後して進むこと2里、斜里会男徒の出迎えを受ける。中に止別村の鈴木老姉、越川駅のソフィヤ中島姉が加わっているのを見て、座下まず車を降り、一同に降福を賜る。その後、徒歩で1里半、斜里原野会堂に到着。時に午後4時半。8戸41名ことごとく集まり、座下祈祷を献じ一同御祝福をうける(8戸のうち、斜里市街の鳥居、庄子の2戸を含む)。
 午後6時より新設会堂の小聖水式祈祷は福井司祭が執行する。スボタ・主日の聖歌でさえ訓練を積まないこの会の信徒なので、この特別祈祷の聖歌には、小生(小川師)ひとり心痛したが、司祭、座下に助けられて首尾よく成聖式を終える。ついで座下の御説教となり、この少数信徒で会堂を新設されたことを神に感謝しかつ御賞賛され、座下の至誠と熱心に満ちた一言、一言は、この斜里の篤信実直な兄姉の心に永遠の信仰の霊火を投じられた。
 30日。午前6時より洗礼機密執行、大人3名、小児3名(斜里教会の故セルギイ熊谷養作兄はその中の一人である)次いで聖体礼儀代式の祈祷が行われ、前晩の告悔者33名全員領聖をうける。午後より座下の信徒訪問あり、6戸御回祷、降福を賜り戸別に小聖像を下賜される。午後3時頃座下には一切の用務を済ませ、半里先の斜里市街に一泊され10月1日、函館直行の郵船肥後丸で帰京なさる。
 30日に斜里の旅館に御宿泊されたが、ここにその時の面白い挿話があるので紹介する。先着の案内人が斜里の一等旅館に主教一行のお泊まりのことを頼んだところ、旅館の女将は主教様御一行を支庁様一行と思い、周章狼狽、先客の座敷替えまでして上等の客間をあけて待っていたが“リヤサ(神品の着る主に黒い衣)”を召された主教、福井神父の到着姿を見て、耶蘇の外国人宣教師とみてとり、たちまち座敷満員とけんもほろろに宿泊を拒絶され、心外ながら川島旅館に御宿泊となった。
 当時、道東の一寒村にセルギイ主教を迎え、初代会堂の成聖式に座下みずから御臨席なされたことは希有のことであろう。