第一章 ロシアの東方進出と千島アイヌ
第1節 クリル列島とクリル人


 露領時代の千島列島はクリル列島と呼ばれ、カムチャツカの南端から蝦夷(北海道)の北岬に延長約1200q、小島を除いて弓状に22の島からなっている。クリルの語源は露語のクーリイチ(燻る)からなまったもので、これは露人が初めてカムチャツカの南端から遙かに千島最北のアライト島を望んだとき、その山頂から火焔が上がるのを見て名付けたためと言われている。しかし、クリルの名称はアイヌ語のクル(人間)に由来する説が今日有力である。日本でも古くは千島のことを「くるみせ」と呼んでいたと言うが、名称については、その地に住んでいた先住民をクリル人、または千島アイヌと呼ぶことにする。
 カムチャツカ・千島が露人の版図となる以前のクリル人については『千島アイヌ』の著者鳥居龍蔵氏、自ら占守島へ渡って千島アイヌを調査した我が正教会の伝教者フェオドル斎藤東吉師によれば次の通りである。
 クリル人は、露人が北千島へ進入する相当以前から首長制の一大部族(一時は300名以上もいた)を形成し、各島を移動する活動的な狩猟民族であった。占守(シュムシュ)・幌莚(パラムシル)・羅處和(ラショワ。現地ではラサワ)島を定住地としながらも、北千島列島間を南は新知(シンシリ)島辺まで移転往来して狩猟をしていたが、古くはカムチャツカ東岸ではほぼアワチンスカヤ湾、西岸ボルシャヤ河を結ぶ一線より南の地帯まで拡がっていたと言われる。
 クリル人は古くから蝦夷アイヌと交易して木綿・鍋釜・刀剣等の鉄器も手に入れて交易的な経済生活をしていた。松前から蝦夷アイヌを通して日本文化の片鱗に触れていたわけである。即ち、蝦夷のアイヌは日本人と交易したこれらの品物をラサワ島まで運び、クリル人の捕獲した物資である鷲の羽やラッコの毛皮などと交換していた。
 『新羅の記録』には、1615年(元和元年)にメナシ地方(今日の根室・目梨地方を中心とする道東の広い地域を指す)からアイヌが数十艘の舟で松前に来てラッコの皮を松前藩主に貢物として持参し、藩主はこれを徳川家康に献上したという記録もある。
 また、1623年(元和9年)、江戸で他の切支丹信徒とともに火刑にされたイエズス会のデ・アンジェリス(イタリア人で再度蝦夷に渡っている)神父の書いた『蝦夷国報告書』(千島列島に関する文献の最古のものである)について、北大教授児玉作左衛門氏は千島先住民に触れて興味ある解説をしている。
 「その当時の藩主は松前志摩守公廣であるが、デ・アンジェリスに語ったことは次のことであった。即ち<ラッコ>は蝦夷地には産しないので、先住民はその皮を買うために、蝦夷の近くにある三つの島へ行く。これらの島の先住民には髭が無く蝦夷人とは全く異なった言語を持っている《 中略 》蝦夷の近くにある三つの島とは、さしあたり国後(クナシリ)・択捉(エトロフ)・得撫(ウルップ)の三島が考えられるが、或いは国後・択捉は蝦夷地の一部と見なし、その先にある得撫・新知及び他の一島の三つを意味したのであるかも知れない《 後略 》」
氏が述べているように、蝦夷アイヌと異なった民族が既に千島列島の中・南部に進出し、それらの地が彼らの生活圏となっていたのであろう。
 クリル人はいずれの地方から渡来したか、その起源については、アイヌ民族の系統に属することは間違いないが、蝦夷アイヌとは形質上やや異なる千島独特の民族が古くから蝦夷アイヌと交易し、独自な生活環境を築いていたことがうかがわれる。

   


第2節 露人のカムチャツカ進出


 ロシア人の東方進出は天正9年(西暦1581年、以下西暦とする)イェルマークに率いられたコサック兵800人がウラル山脈を越えてシベリアに進出し、1632年にはヤクーツクに城塞を築き、政庁を置き、1646年にはオホーツク海に達し、僅々60余年間でシベリアの大平原を大西洋岸まで横断したのである。また、カムチャツカは1697年から99年にかけてアトラソフ(シベリア大陸の東端ベーリング海のアナジリ湾頭のアナジリ城塞の司令官)によって征服されている。
 当時、この地方には、千島から渡ってきた人々とカムチャダール(カムチャツカの先住民・イテルメン)が混血・雑居していた。アトラソフ自身はカムチャツカ半島の南端をきわめなかったが、南の遠くない会場に島々があることを先住民から聞いている。
 アトラソフは、この地で先住民の捕虜になっている一人の日本人を保護した。この男はアトラソフやコサックと2年間カムチャツカで生活を共にした後、ペテルブルク(現サンクト・ペテルブルク)に送られ、ピョートル大帝の命令でロシア語を習得すると共にロシア人の若者に日本語を教えることになった。彼の名は伝兵衛で、ロシア国籍を取得し、ガウリイルの聖名で洗礼を受け、帰国することなく彼の地で永眠している。彼こそ日本人として最初のハリストス正教信徒であろう。ピョートル大帝は伝兵衛を招いて自ら彼の話を聞いている。大帝は1702年、勅令を発して日本との通商の可能性を探ることを命じている。その後、ロシア人によりカムチャツカへの航路が開拓され、北千島への進出、更に日本への接近となる。

  


第3節 露人の千島進出


 ロシア人が最初に千島列島に進出したのは、1711年(正徳元年)のことであると言われている。この年、ロシア人のアンツィフョーロフ、コズィレフスキーの両人が反乱を起こし上官を殺害した。彼らはその罪を償うために多くのコサック兵を率い、千島列島伝いに日本に接近することを計画した。カムチャツカのロバトカ岬からカムチャダールの首長を案内役として、小舟と革舟に乗って遂に危険な海峡を突破し、千島第一島の占守島に上陸、有力な火器によって千島アイヌを制圧し、次いで1712年、第二回探検で幌莚島も支配下においた。茲に、これらの島を根拠地として、北はカムチャダール、南方択捉、国後の蝦夷アイヌを制圧した千島アイヌは露国政府の支配下に置かれることになったのである。だが、首長制度は存続し、後には正教会の司祭によってその就任式が挙げられるようになった。
 この時、先にカムチャツカに漂着した日本人捕虜のなかの「サニマ」(三右衛門の訛りか)と名乗る若者を、案内兼通訳として連れてきている。たまたまこの島には、シャタノイという名のアイヌが択捉島から日本の物品を持って交易に来ており、彼からマツマエ島(北海道)に至る14の島とその順番を知ることが出来た。
 サニマはその後、ペテルブルクに送られ、この地で帰化し、ロシア婦人と結婚して男子をもうけた。彼は伝兵衛の助手として日本語を教えたと言われるが、これには確たる証拠がない。ロシア婦人と結婚した事は、当時のロシアでは敬虔な正教徒になった事になる。
 その後、第二次ベーリングの北方大探検隊で日本沿岸の調査を命じられたシュパンベルグは、1738年(元文3年)千島列島を南下し、得撫島まで31の島を数えてこれを海図に記入したが、これは霧のため実際より多い島数であった。この航海では一人の日本人にも出会わなかった。更に、彼は先住民から日本の支配はマツマエ島(北海道)だけであって、他の島々は日本に従属していない事も聞いている。また、彼は1739年の探検では日本の安房、伊豆下田附近にまで入っている。
 ロシアの東方経略の目的は、国家組織による貴重海獣猟であり、また先住民と獣皮等を交易することを基盤として殖民地を獲得することにあった。一方、日本は徳川幕府の鎖国政策下にあり、当時、未開の北の宝庫、蝦夷も南端の小藩松前に委ねられていたに過ぎない。
 ベーリングやシュパンベルグの探検が行なわれていた頃、特にシュパンベルグの第一回探検で、千島列島に日本の主権が及んでいない事実を知ったロシア人は、占守島を根拠地として幌莚島以南、中千島から南千島にも進出した。コサックの百人長イワン・チョールヌイはヤサーク(毛皮貢税)徴収のため1768年に択捉島まで南下した記録がある。
 当時、ロシア人の多くは目前の利益のみ追い、永遠の大計をはからず先住民を虐待し、ために先住民の反感を高め、1770年、1772年、得撫島に出稼したロシア人が千島アイヌや蝦夷アイヌの襲撃を受けて、一時一掃されるような事件も起きている。
 その後、ロシア側は態度を改め、再び来航した時以来、千島アイヌに物品を与えて隔意のないことを示し、ロシア人と彼らとの間に交易が開始され、着々と経営を進め、得撫島に基地の建設を始めた。1820年から30年にかけて露米会社(産業家シェリコフが1798年にロシア=アメリカ会社をシットカを根拠地として設立し、毛皮貿易に大きな役割を果たし、1830年には北・中千島の権益をロシア政府が露米会社に渡した)が新知島と得撫島にアレウト人(アリューシャン列島先住民)を送り込んでラッコの狩猟に当たらせた。
 その後、この北辺で日本とロシア両国間に種々と紆余曲折が生じたが、1855年(安政元年)に伊豆下田に於いて日露通好条約が締結され、択捉・得撫間を両国の国境と定めた。得撫島に露米会社が進出する以前は、古くから得撫島が千島・蝦夷アイヌの自然の境界地であり、共通の狩猟場であったようである。

  


第4節 クリル人と正教


 1747年、カムチャツカの掌院ホコウンチェウスキー師は、修道司祭イオアサフを千島に派遣し、先住民教化に当たらせたと、鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』にある。それによると当時、占守・幌莚島に住んでいた千島アイヌは253名であり、その内、56人に洗礼を授けている。その時、イオアサフ師の持参した金装の聖書は、後の斜古丹聖三者教会の宝物として保管されたと伝えられている。その後、少年子女の為に学校を開設して彼らを教化し、正教の布教も着々と進められていく。
 イオアサフ師はその後、1794年、シノド(聖務会院)からアラスカ正教団の責任者として派遣され、大いに布教効果をあげ、カジャク島(アラスカ、アリューシャンの布教基地)の主教に叙聖されたが(1799年4月、於イルクーツク)、同年5月帰任のためオホーツク海を航行中、その乗船フエニクス号と共に行方不明になった。イオアサフ主教はロシア領時代のアラスカの初代主教となったが、現在、アメリカ正教会ではアメリカの初代主教として記憶されている。
 古来、千島アイヌは各島を移動する活動的な狩猟民族であり、占守・幌莚・羅處和の三島を定住地としていたのであるが、彼らは、この島より彼の島へと妻子と共に海獣を求めて移り歩いていたので、神父もまた彼らの後を追って転々として散在する島々を巡回しなければならず、決して容易な事ではなかったであろう。初期の伝道では言葉の違いをどう克服したのであろうか。神父達が千島アイヌの教化に努力した熱心さには驚かざるを得ない。『千島アイヌ』より引用すると
「1766年(明和3年)ツヱイ氏の調査によれば、一番島(占守)・二番島(幌莚)・十四番島(宇志知。ウシシリ)には男子(男女の誤りであろう)262人の千島アイヌが居り(内121名は貢納す)、1800年には正教を信仰する者は男77名、女87名、合計164人を数えた」
とあり、1800年代には千島アイヌ全員が正教徒となり、尚、択捉島の蝦夷アイヌにも正教を信仰する者が出たと思われる。それは、幕府が1799年、北辺の防備を痛感して千島の直轄に着手した時、島民の持っていた聖像を取り上げ、蝦夷地に施行された最初の成文である三条の法の第一に、
「一 邪宗門にしたがうもの、外国人にしたがうもの、其の罪重かるべし」
と規定したことを見ても、その辺の事情を窺い知る事が出来る。
 かくして、千島アイヌ固有の風俗が失われて、言語・姓名・生活様式も著しくスラブニック化し、深く正教を信仰する北辺の「ハリスティアニン」と変貌していく。1801年、占守島のモヨロップ(片岡)湾頭のコタンヌイの丘に正教の聖堂が完成する。
 明治27年の『正教新報』に1867年、大主教に昇叙され、モスクワの府主教に選立されたインノケンティ師が主教に叙聖される以前、司祭イオアン・ヴェニアミンノフとしてアリューシャン列島・アラスカ・カムチャツカを巡回していた頃、幌莚・占守島に千島アイヌを訪ねた記事が載っている。北川氏寄稿となっている。1830年前後の事であろうが、千島アイヌの性格、篤い信仰をよく表しているので紹介する。
 「イ師が、シベリヤ、アリューシャン列島、アラスカの地方を管轄していた頃、しばしば千島を巡回されたことがあった。《 中略 》千島の土民は夏期に至れば海辺に繁茂する青草の上に天幕を張って住居とし、冬期になれば其の天幕は不潔悪臭に満たされ、イ師が大祭日に諸部落を巡回した時、その悪臭不潔には大いに閉口なさったそうである。島民は殊に信仰厚く、会堂(祈祷所)に参拝して欠席すること無く、又よく家業に励んでいる。土民は一般に外国人に対して何事も隠し立てする。これは生まれつきの卑怯によるものか、また野蛮的な恐怖心によるものか、また狡猾心より出ているものか分からぬが、イ師の語るところによると、生まれつきの臆病から生ずるものであると言う。そのために彼らは痛悔の時にも罪を打ち明けず、神父らもこれにはほとほと困り果てたようである。しかしながら、彼らは朝夕の祈祷・スボタ(土曜日)・日曜日・大祭日の祈祷は欠かしたことが無い。大斎の初週及び終週には魚油を使用しないで、ただ海草或は野菜のみを食べて精進し、仕事に出る時は必ず祝福を受け、また夏期は毎朝夕一箇所に集まって祝福を受け《 中略 》。イ師は或る年に幌莚に行った際、冬期を其処で過ごした。大祭日には雪と雪との中間の凹所に布を張って、雪の上で潔白なツェレラ(千島に産する草の名)及び柏の枝を敷いて奉神礼を執行した。ハリストス復活祭後の一週間は、島民は順番に各自の家に他人を招いて供応するのであった。《 中略 》イ師はその年の5月中旬、土人用のバイダルカ(海獣の皮で作った舟)に乗って占守島へ渡った。この島の土民は巧みに露語を語り、露語を読み、彼らは魚の多く繁殖する川辺に住み、夏期になると隣邦のカムチャツカに行き交易を行なっていた。」

鋳銅製十字架

これは、斜古丹聖三者教会秘蔵の縦26.5p、横12pの鋳銅製の聖十字架である。イグナティ加藤神父がそれに次のような注釈を加えている。
「今を去ること凡そ250年前、現首長ヤコフ師の祖先イオアン・ストロゾフ氏の妻ペラギヤ姉が、偶々ラサワ島山中で発見したもので、累代相伝え秘蔵してきたが、会堂新築の際に聖三者教会に献納し、永く救贖を祈願するものである」
イグナティ加藤神父が根室に在住したのは、西暦1897年(明治30年)から1901年までである。鋳銅製十字架が発見されたのは、1898年を起点とするとそれより250年前、即ち1630年頃となるが、露人の北千島進出は18世紀初期である。正教の弘布の年代から推測すれば、聖十字架は18世紀中期以後のものであろう。聖十字架は推測の域を出ないが、奉神礼用の神父の携帯品でなかろうか。神父がそれを落とすとは考えられない。或は、神父が巡回中に不慮の災難に遭い、十字架を手放す羽目に遭遇したのかも知れない。とすれば、それ自体に宣教の苦闘の汗と血が滲み出ていると思われる。
 近世の植民史上、その初期には目先の利益のみに走り、先住民を酷使虐待し、彼らからすべてを収奪してやまなかった山師や、いかがわしい者が出没、暗躍したことは明らかである。そのために、大きな人類愛によって彼らを庇い、神の恩寵に浴させて彼らを抱擁し、それが為、身の危険を顧みず、殉教致命さえ厭わなかったハリストス正教の神父達の存在も忘れることは出来ない。
 かの鋳銅製の十字架には、これら正教の神父らの熾烈なまでの宣教の歴史が秘められているのではなかろうか。
 これらの正教の神父は、フェオドル、ロマン、アレクセイ、イーゴリ、フィルス、ニコライ、グリゴリイ、セルギイ、マクシム、チレフワシリイ、フェオクティリスト、パウエル、ハララムピイ等の諸神父の方々である。
 以上の神父名は、明治18年にティト小松神父に随行して先住民との通訳に当たったアレクセイ澤邊師の記録で、氏名でなく聖名の呼称である。明治17年にヤコフ首長の住宅(仮会堂であった)が焼失しているので、おそらく先住民からの口碑によるものであろう。
 これらの神父名は、明治39年、40年に色丹に在島した我が正教会の伝教者である斎藤東吉師著の『日本最古の正教島』に詳細に記されているが、前記の神父名とは大分異なっている。

  


第5節 クリル人の色丹島移住


 1875年(明治8年)日本とロシア間に樺太・千島交換条約が締結された。この条約によって日本が樺太の領有権をロシアに譲る代わりに、ロシアは占守島から得撫島に至る18の島を日本に引き渡すことが明記され、日露の国境をカムチャツカのロバトカ岬と占守島間の海峡に画定された。この条約の附属公文には、この地域に住む先住民は、三カ年以内に日露何れかの“臣民”になることを選定しなければならぬと規定されている。そこで、条約の結ばれた年の8月、明治政府は五等出仕時任為基を北千島へ派遣し、この旨を先住民に伝えた。
 当時、北千島には100人を越す先住民が住んでいたが、彼らは既に一世紀以上にわたってロシアの支配下にあり、言語・衣服・宗教などの面でもかなりロシア化されており、その去就とともに数奇な運命に弄ばれることになる。
 ロシア人並びに得撫・新知島に居住していたアレウト人は、条約に定められた期間、即ち3年後の11月までには悉くロシアに引き揚げた。千島アイヌも風俗・宗教等から、ロシアにと願いながらも、丁度、明治9年に出猟した半数の者が帰島しないためその態度を決することが出来ず、やむなく我が国に属することになった。
 占守島にいた首長キプリアンは、条約成立の年、島司インノケンティ・カララウィッチと12人の同族と共に9月15日、当時、他島への出猟中であったアレキサンドル以下22人の同族を置き去りにしてカムチャツカに向かった。日本国籍に入ったのは、このアレキサンドル組と副首長ヤコフ組のラサワ島の千島アイヌである。
 奇しくも、平成4年5月21日付北海道新聞に、ポーランドに子孫がいた!!という見出しで、首長キプリアンと共にカムチャツカにわたった同族の末裔が、現在ポーランドに住んでいる事が報じられている。シャールド・クリルチク氏他三家族である。シャールド氏によると、
「祖先はシュムシュ島に住んでおり、そこが日本領になるとロシア側に行く事を選んだ。大祖父のアドルフ・クリルチクさんら12人は、カムチャツカのシエログラツキに移され《 後略 》。」
とある。アドルフ氏は数奇な運命をたどり、二代、三代目の祖父、父はそれぞれポーランド婦人と結婚し、父は第二次大戦直後、リトアニアよりポーランドに脱出、現在、ポーランドのスープスク市に在住している。
 『フェオドル斎藤東吉自伝』によれば、首長キプリアンとカムチャツカに逃れた同族12人は、ペトロパブロフスク(首都)より「ヤウイン」に移住させられている。明治10年の春、首長アレキサンドルは日用品欠乏のため、獣皮を携え、交換の目的をもって露領「ヤウイン」に渡り、偶然にも前首長キプリアン氏に奇遇し、故山を慕うキプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている。フェオドル師は、「キプリアン氏の組は、露領に移りてより殆ど半数は不帰の客となり、残れるは僅々7名のみ」と自伝の中で記している。ロシア国籍を選んで露領へ渡ったクリル人の数は、北海道新聞とフェオドル斎藤師の記事で共に12人と符節を合わせたように一致している。そうであれば、東吉師の言う「殆ど半数は不帰の客となり」「キプリアン氏ら7名の同族をシュムシュ島に連れ帰っている」の点については疑問が生ずる。翌日の北海道新聞には「……だが、当時の日本政府の公文書ではシュムシュ島に戻ったのは二家族だけとされており、数家族がロシア側の国籍をとり、残った可能性が大きい」という記事が載っている。
 我が国では明治9年、更に官吏を派遣してその状態を調査し、救育費として三カ年に一回、5000円の政府別途交付金を給付、食料品等の生活必需品の購入に充て、汽船に搭載、彼らにこれを提供し、生活を保障するとともに捕獲した毛皮を集めた。
 しかし、毛皮は年とともに少なくなり、したがって著しい失費を伴い、その上、根室から1200qも離れた絶海の孤島では監督も行き届かず、当時、盛んに千島に出没する外国の密猟船に対して便宜を与えるおそれもあった。また、千島アイヌは風俗・習慣共に著しくロシア化していて殆どロシア人と変わることなく、こうした者を国境近くに置くことは、同化が困難であるばかりでなく、国境を正すことにならないばかりか、むしろ危険にさえ感じられ、日本政府としてもクリル人に対して早急な処置を講じる必要があった。
 彼らをより交通の便利な箇所に移そうとする計画は、既に明治9年以来の計画であり、その度ごとに移住を勧誘してきたが、彼らは永年住み慣れた地を離れ難く、口実を作っては日本政府の勧誘に応じようともしなかった。
 明治15年に開拓使が廃止され、函館・札幌・根室に三県が置かれる。千島は根室県に属し、湯地定基が根室県令に任ぜられた。明治17年、三年ごとの撫育船を派遣する年にあたり、湯地県令は千島アイヌを色丹島に移す計画のもとに、要路の大官と共に占守島に向かい島状を調査した。丁度、その年に出稼に行っていた仲間も悉く同島に集まっていたので一同を諭し、男女97人をその船に乗せ、ただちに色丹島に移住させた。
 同道した参事院議官安場保和の『北海道巡回日記』に往時の状況が詳細に記述されている。
「五日晴。県令着島より船に還らず、懸々接待遂に全島移住の運びとなる。開拓使以来再三の説諭にも頑として服さず、今日此の挙ある時至れるものなりと雖も、県令懇諭(こんゆ)の誠(まこと)切なるを感ずる所ありと言うべし。全村移住に決し家財をまとめ、牛・犬を殺し、日没に至り全員乗船せり」
 即ち、湯地県令は7月1日の占守島に上陸してから約5日間、本船には一度も帰らず、彼らと起居を共にして懇々と移住を勧告したのである。勿論、彼らのうちには絶海の孤島とは言え、長い間住み慣れた故郷を離れ難く幾多の逡巡をみせた者もいたが、日本領になってからは、日本政府に頼るより外に生活の途がたたず、遂に意を決し、20戸97人、そろって移住することに決したのである。一行は7月6日に全員乗船して11日朝、色丹島に到着した。
 ここに、色丹島の北方オホーツク海に面した斜古丹湾頭に斜古丹村が出現し、信仰篤い彼らによって斜古丹聖三者教会が創設され、この後、永く日本正教の一肢体となるのである。首長は、斎藤東吉師によるとアレキサンドル・プリチンとなっているが、明治17年8月の旧戸籍(鳥居龍蔵氏の『千島アイヌ』)によればアレキサンドル・チェルヌイでなかろうか。副首長はヤコフ・ストロゾフである。
 色丹島は根室半島ノサップ岬より73.3qの地点に在り、東南は太平洋に面し、西北は国後島に相対し、南西より北東に至る長さ28キロメートル、幅およそ9qの長方形をなし、面積は約255平方qの島で、当時、色丹島は文化5年以来居住する者が無く、その後、しばしば出稼漁なども試みられたが長続きせず、空しく千島で活躍する外国密猟船の寄港地となっていた。

  


第6節 色丹島移住後のクリル人


 移住の年より漁船や漁網を与えて漁業に従事せしめ、また北千島時代に露人の指導に依って既に試みられていた牧牛と、新たに緬羊・豚・鶏の飼養が相当の計画のもとに始められ、農耕も指導奨励されたが、これらの組織化は彼らにとって未だ経験したことのない急速な生活上の変化であったため、適応は困難であった。農耕についてはやや望みがあるとみられたが、明治27年8月の水害による耕土の流失を機として殆ど廃止され、自家用の野菜を収穫する程度にとどまり、各種漁業も細々ながら唯一の生業として期待されたが、移住後の生活の安定した拠り所とするには至らなかった。
 この間、明治18年より27年まで10カ年間撫育費が計上され、その後も更に期間が延長されて32年まで継続された。また、同年3月より新たに保護法が制定され、その中に特別科目が設けられて救恤事業(救済)が続行された。

強制移住による人口の減少

 移住後、生活の急変に加え風土の変化の為に、彼らの着島後、僅か20日も経たぬうち、3人の死者があり、更にその後も死亡者が続出し、これには彼らも愕然たらざるを得なかった。17年には6名、18年には11名、19年・2名、20年・17名、21年・10名の死亡者があり、出生11人を差し引くも33名の減少をきたし、ついに64名を数えるに過ぎなくなった。それは生活環境の急激な変化、ことに内地風に束縛された生活、肉食より穀食を主とした食物の急変等によるものであるとみられるが、移島当時は動物性食料の欠乏を補充する食物の貯蔵が少なく、冬期野菜類が切れて壊血病にかかり死亡したものとも言われている。事実そうであるとするならば、政府の不用意な強制移住がこの結果を招いたとも言えるであろう。
 明治18年2月22日付色丹戸長役場の日記を見ると、
「此の日土人等具情云、当島は如何にして斯く悪しき地なる哉。占守より当島へ着するや病症に罹る者陸続、加之(これにくわえ)死去する者実に多し。今暫く斯くの如き形勢続かば、アイヌの種尽きること年を越えず。畢竟(ひっきょう)是等の根元は、占守において極寒に至れば氷下に種々の魚類を捕らえ食す。故に死者の無きのみならず、患者も亦年中に幾度と屈指する位なり。然るに当島には患者皆々重く、軽症の者と言えば小児に至るまでなり。見よ一ヶ月に不相成(あいならざる)に死する者3名、実に不幸の極みとす−云々」
故に故郷占守島に帰還したいが、もしそれが不可能ならば得撫島にでも移りたいと嘆願している。
 根室から指呼の間にあるこの島に閉じ込められた彼らクリル人にとって、人口の減少は、この後も重い十字架として背負い続けなければならなかった。