大致命女 聖イリナの生涯

 一世紀のおわり頃、ギリシャのある州にリキニイという大守がおり、彼にはペネロピヤという娘がいました。
 リキニイはこの娘を愛し、世俗に染まらない純真な女性に育てるため、閑静な地に大邸宅をかまえ金銀宝石でそこを飾りペネロピャを住まわせました。
 リキニイは、ハリストス教を信じていなかったので一人の老練な文教師アペリアンに教育を頼み、さらに十三人の処女をペネロピヤに与えて身のまわりの世話をさせました。

 こうして数年たちました。ペネロピヤはますます美しくなり、優しく慎しみ深い女性に育ちました。
 リキニイは、アペリアンがハリステアニンであることを知りませんでした。というのはアペリアンが、ペネロピヤが成人に達するまでハリストス教を教えなかったからです。しかしアペリアンの言動は、ペネロピヤは大きな影響を与えました。
 ある日、ペネロピヤが一人の文教師と一緒に勉強していた時に、一羽の鳩が飛んできてオリーブの枝を机上に置くと、飛び去っていきました。
 さらに一羽の鷲が飛んで来て花の冠を置いていきました。続いて別の鳥が窓から入って来て小さなへびを置いて去りました。

 ペネロピヤと文教師は驚いて、老教師アペリアンにどういう意味があるのか尋ねました。  アペリアンは、しばらく考えたあと話しました。
 「少女よ。わたしにはわかります。鳩は、あなたの徳と温和、貞潔を明示し、オリーブの枝は、ハリストスのみ名による洗礼があなたに与える里神の恵みをあらわしています。また鷲は、あなたが私欲に勝ち、いと高き神へと向かう人生の勝利者となることを予象しています。花の冠は、あなたの功労に報いる神の恵みです。しかし別の鳥とへぴとは、あなたの敵で、あなたを善から遠ざけようとする悪魔の力です。けれども安心しなさい。あなたは天におられる神によって信仰を固められ、多くの困難と苦しみに耐えるでしょう。」

 ペネロピヤは、アペリアンにハリストスの教えと要理を教えてくれるよう求めました。そして彼女は、ハリストスヘの愛に満たされるようになりました。
 やがてリキニイとその妻は、ペネロピャの所に来て、近々結婚するのにふさわしい男の人を連れて来るから、結婚するようにと言いました。ペネロピヤは、数日ほど考えさせてほしいと願いました。父母は、その願いを聞き入れて帰りました。

 ペネロピヤは、神の教えを理解する前に結婚するのがいやでした。そこで偶像の前で祈りましたが、人の手が造った像は何も答えませんでした。
 ペネロピヤは、天を仰いで叫びました。
 「ガリレヤ人の信じる神よ。あなたがもし真の神ならば、わたしに教えて下さい。どうしたらよいのでしょうか。」  その夜、神の使いが彼女の夢の中に現われました。
 「あなたは、多くの人々を救い、数千の人々を真理に導くでしょう。アペリアンは、真実を語っています。神の使徒テモフェイが、あなたのもとへ来て洗礼をほどこすでしょう。あなたは今からペネロピヤと名のらず、イリナ(平和)と名のりなさい。」

 ペネロピヤは目覚め、心から喜びました。  まもなく聖使徒パエルの弟子テモフェイが神の使いに導びかれてやって来ました。テモフェィは、ペネロピヤにイリナという聖名で洗礼を授け、「ハリストスの聖なる名においてどんな苦難を受けても、堅く信仰を守るように」と言い残して去っていきました。

 イリナは、すべての偶像を打ち壊し、信と愛とをもって神に祈り、熱心に聖書を学びました。  一週間後、父母がイリナの所へ来て、結婚の話を持ち出しました。イリナはそれに答えず、自分が洗礼を受けたことを述べ、父母に対しても、真の神を信じるように勧めました。

 「お父さん、お母さん。天におられる真の神のほかに神は存在しないのです。偶像に仕える人は永遠に滅びるでしょう。わたしたちにとって神々は、何の恵みも与えてはくれません。また偶像のために金銀財宝を献げるのは無意味です。むしろ貧しい人々に施して、生ける神のために奉仕しましょう。真の神はひと言で宇宙を創造し、生者と死者の上に立っておられます。 お父さん、思い出して下さい。この大邸宅は、三五〇〇人の人夫によって九か月もかけて造りました。ところが主なる・全能者は、びと言で、天地、太陽、片、星を創造し、草木・動物を創ったあと人間をつくりました。主はわずか六日間でこれを創りました。
 神の独り子イイスス・ハリストスは、地上とに降り、人体を籍(と)って人となり、人々を教え導き多くの奇蹟を行いました。そして人々の救いのために苦難を受け、死んで三日目に復活されました。主は、永遠の生命を約束し、主を信じる者に聖神をつかわしました。神の憐れみは深く、全ての人を包んでいます。」

 父母はイリナの言葉を聞いて感激して、その時は宮殿に帰りましたが、父リキニイは、イリナが神々に祈らなくなったので妻に対して言いました。
 「これからわたしたちは、どうしたらよいのだろうか。愛する娘は、偽教を信じてしまったが、どうやったら偽教から離すことができるだろうか。このままでは、娘は身を滅ぼしてしまう。」  妻は夫に間いました。
 「わたしたちの娘は、何か悪いことをしたことがあったでしょうか。」  「いや、一度もない。しかしハリストスを信じて神々を棄ててしまったではないか。」

 妻は、夫リキニイに言いました。  「あなた、これはすばらしいことです。天地の創造者ではない神々は、きっと滅びるでしょう。幸いなるかな、わたしの娘よ。あなたは、永遠の生命を賜わる万有の王ハリストスの光栄を受けるにふさわしい者です。」
 リキニイはこれを聞いて怒り、妻を追い出してしまいました。

 そのあと、イリナがやって来ました。イリナは父の怒りをやわらげようとして、やさしく語りました。  リキニイはますます怒って、「こんな親不孝な娘をもつくらいなら、最初から子供なんかいらなかった。おまえは、わたしの愛情に対して悪をもって報いたのだ」と叫びました。

 イリナは父に言いました。  「わたしがどんな悪いことをしたというのですか。わたしはハリストスを信じて、偶像を棄てただけです。真の神を信じることが、どうして悪いのですか。」  リキニイは、激怒して大声で叫び、イリナを自分の命令に従わせようとしました。けれどもイリナが拒絶したので、リキニイは娘を狂ったように走る馬の群に投げ入れました。

 主なる神は、イリナを守り傷一つ負わせませんでした。かえって一頭の馬がリキニイに襲いかかり、右手を噛み切りました。
 彼は重傷のため、息も絶えだえになりました。これを見たイリナは、神の力によって父をいやしました。

 リキニイは、この出来事のあとハリストスの偉大な力を信じ、自分の全家族と周囲の人々約三〇〇〇人と共に受洗しました。
 その後リキニイは、大守を辞職し、郊外にあるイリナの家に移り、アペリアンのもとで熱心に伝道に専念しました。

 しばらくして新任の大守が赴任しました。大守はイリナにハリストスを棄てて神々のもとに戻るよう説きました。イリナはこれに従いませんでした。
 そこで大守は、イリナを毒へびや毒虫のうごめく穴に投じました。しかし神は聖なる処女を守りました。さらに大守は彼女を引き出すと、ノコギリひきの刑にかけました。しかし逆にノコギリの歯が折れてしまい、イリナには傷一つありませんでした。

 この時、突然、天を黒雲がおおい隠しカミナリが電光を発し、イリナの処刑にかかわった人々はカミナリに打たれて焼死しました。
 これを見た大守は、神のカを恐れてイリナを殺そうとしました。周囲の人々は、神の怒りを恐れてイリナを守り、大守を町の外に連れ出して石で打ちました。大守はこの時の傷がもとでやがて死んでしまいました。

 そのあと、大守の息子が父の職を継ぎました。新しい大守も、イリナを捕えて処刑しようとしました。
 イリナが牢獄に八れられていた時、主が現われて、「わたしの娘よ。恐れてはいけない。わたしはあなたと共にいて、あなたを守るでしょう」と言いました。
 刑吏たちはイリナの足にクギを打ちつけ、町中を引きまわしました。すると神の使いが刑吏を打ち殺したので、町の人々は驚き、大声で「神は、聖なるイリナと共におられる」と叫びました。
 ところが大守をはじめとする人々は、イリナとハリストスをののしり呪いました。するとそれらの人々は、神の使いに打たれて死んでしまいました。
 イリナは、数年間その地にとどまり神の教えを語り、多くの異邦人をハリストス教に改宗させました。
 その後イリナは、別の地方へ移って伝道しつづけました。しかしイリナを殺そうと狙う領主の一人がイリナを捕え、鉄のオリに入れて火の中に投げ込みました。イリナが、神を賛美する歌を歌いつづけていると、神の使いが現われて彼女を助け出しました。その領主はこれを見て悔い改めハリステアニンになりました。

 イリナは、ギリシャ各地へ伝道し、数年後にエフェスにやって来ました。イリナはそこで多くの異邦人を受洗させました。  その時、イリナの師アペリアンが訪ねて来ました。イリナは、自分の死が近いことを悟り、集まっていた多くの人々に遺言を述べました。

 「兄弟たちよ、喜んでください。わたしたちの主イイスス・ハリストスの平安は、あなたがたのうちにあります。願わくは、あなたがたが善良な信者になりますように。また堅く信仰を守られますように。いまわたしは、あなたがたに別れを告げます。皆さんのあたたかい心に感謝します。わたしのような寄留者をもてなすことは、最も神に喜ばれることです。」  これを聞いたエフェスの人々は別れを悲しみ、「わたしたちを慰めてくれる人はどこに行ってしまうのか」と言って嘆きました。

 聖女イリナは、老師アペリアンと六人の同労者と共に山へ入り、一つの洞穴にこもりました。彼らは付き添ってきた町の人々に別れを告げると洞穴を大きな石でふさぎました。  こうして処女イリナは、天におられる神のもとへと帰りました。