聖イアコフ

 

 11月5日はイアコフ公書の著者・主の兄弟・聖イアコフの祭日です。新約聖書には他に二人のイアコフが登場しますが、このイアコフは、聖福音記者イオアンの兄弟である初召使徒・ゼウェデイ(ゼベダイ)の子イアコフや、十二使徒の中のアルフェイ(アルパヨ)の子イアコフとは別人です。また、「兄弟」とは言え、聖伝によると、イアコフは義人イオシフの先妻の子、もしくは従兄弟だとされています。

 イアコフは聖神降臨後もエルサレムに止まり伝道活動を行い、エルサレムの主教になりました。敬虔で厳しい祈りと斎の生活は、クリスチャンに止まることなく多くのエルサレム市民の尊敬を集めました。

 異邦人伝道が実りをもたらしてくると、信者間に旧約律法遵守・特に「割礼」に関して論争を呼び起こしました。

 この問題を中心に討議したエルサレムでの「使徒会議」では、イアコフが議長を務めました。会議は「人類は皆、イイスス・ハリストスの恩寵によって救贖を得るべきであるから、異教人はユダヤの律法を守るに及ばない」と決議しました。

 キリスト教が日増しに発展するのを見てユダヤ教の司祭たちの怒りが増し、ハリストスの奉事者に対する迫害が始まりました。首輔祭ステファンや聖使徒ゼウェデイの子イアコフは最初期の致命者となりました。それでも急速に信者が増えるので、祭司長と民の長老たちは、市民がハリストスから離反するよう聖イアコフが説得するように圧力をかけ、もし従わなければ彼も殺してしまおうと考え、神殿の頂上に立たせました。

 しかし、イアコフは「自分から甘んじて苦難を受け死に、三日目に復活した人の子について私に尋ねるのですか。イイススは今神父の右に座し、将来雲に乗って生きている人と死んだ人を裁くためにお出でになられます」と叫びました。歓呼する群衆を前に民の長老らは憤怒し、イアコフを神殿の頂上から突き落としました。聖使徒は重傷を負いましたが、残りの力をふりしぼって跪き、手を天に挙げて言いました。「主よ、どうか彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」。まだ祈祷の終わらない中に、群衆から走り出た人が重いこん棒で聖使徒の頭を打ち、聖使徒は永眠しました。「ユダヤ戦記」の著者ヨセフスは、70年のエルサレム陥落はイアコフ殺害の天罰だったと解釈しています。