アレキサンドリヤの大主教  聖大アファナシイの生涯  

 聖大アファナシイの名は四世紀において、正教会の歴史と分けることの出来ない関係を持っています。彼はアリイ(アリウス)の偽教に対して真実の敬虔を熱心に保護した者の一人として、乱されない堅固な精神をもって正教のために苦難と迫害とを受けました。

 聖アファナシイは三世紀末にエジプトの都アレキサンドリアに生れました。主教アレキサンドルは童子の彼の才能が抜群であるのと、聖書を読むのに熱心であることを認めて、彼を教育することを考え、しばらくたってからとり立てて輔祭としました。

 ニケヤの全地公会が開かれた時、彼は輔祭として主教アレキサンドルに従って出席し、雄弁をふるいアリイの異端を取り除きました。
 公会が終ってニケヤより帰って間もなく、主教アレキサンドルはこの世を去りました。この時アファナシイは、すでに多くの人々の尊敬を得ていましたので、主教公選は彼を選びました。しかし彼は、このような困難な時に当って教会を統理することは、自分は十分に果すことができないと考え、固く辞して受けませんでした。ところがあまりにも多くの人々が望んでいるので、辞すことができなくなりついに主教に叙せられました。その時彼の年は二十八才でした。

 聖アファナシイが主教職に就いた初めの頃は、教会はいたって平穏で彼は安和に会務に従事していました。
 ところが間もなく、教会はアリイ党のために煽動されるようになり、再び騒然とし始めました。彼らは大いに力を尽してアリイを流罪された配所から呼び戻そうと謀り、遂にその志を達成しました。

 アリイは配所から戻るとすぐ、歎嚇をもって皇帝コンスタンティンに取り入り、自分の方に傾けさせ、アレキサンドリヤ教会に再び受け入れられたいとの望みをあらわしました。皇帝は彼の望みをかなえてやることで、教会から罰せられた迷いの説を棄てるこらしめになると考え、聖アファナシイにアリイを受け入れるよう要求しました。

 けれども真理を知っているアファナシイは、イイスス.ハリストスの神性を認めず拒んだ人を、教会が受け入れることに同意はできないので、彼はこのことを皇帝に申し上げました。皇帝コンスタンティンは彼を理解し、無理強いはしませんでした。けれどもこの時からアリイ党の人々はアファナシイを憎むようになり、四方八方で彼を中傷しようと謀りました。

 アリイ党の人々は、アファナシイが教会から不正の税をとったと事実を曲げて吹聴し、また皇帝に彼が敵を助けたように説明しました。そこで主教アファナシイは、すぐに当時の皇帝が駐在しているニコミテイや城に出かけ、皇帝に会い、これらの中傷が不当であることを証し容易に皇帝を説き伏せました。皇帝はアファナシイを尊敬し、栄誉を与えてアレキサンドリヤに帰しました。

 ところが敵は、聖アファナシイには不道徳な行いがあるという新たなざん言を作り出しました。それはアファナシィが主教アルセニイという人を殺し、その切り離した手を家に隠して魔術のために使用しようとしているというものでした。その上彼らは、その手をアファナシイの所であたかも見たように話すので、その愚かな造言やざん言を信じた人々が集まり、テール城で裁判が開かれ、アファナシィはこれに出頭しなければならなくなりました。ところが殺されたはずの主教アルセニイが自ら裁判に出ましたので、法廷は訴訟が偽であ ることを証して、聖アファナシイは明らかに無罪となりました。

 けれども敵はなおあきらめず、皇帝コンスタンティンに抗奏して、ついに無理にアファナシイをガルリヤ(現在のフラシス)のトリル城に配流させました。その少し後にアレキサンドリヤに来て、アファナシイを訪ねた克肖大アントニイは、皇帝に彼を召し戻すよう切願しましたが、それは徒労に終りました。

 聖アファナシイは皇帝コンスタンティンが死ぬまで配所にいましたが、次のコンスタントが帝位につくとやっとアレキサンドリヤに帰ることができました。その時アレキサンドリヤの市民は、至愛の牧者を大いなる喜びで迎え入れました。けれどその喜びもつかの間でした。
 大帝コンスタンティンの崩後、ローマ帝国は三人の皇子に分けられました。ところがその一人のコンスタントが早く崩じましたので、東西の二帝国に分かれコンスタンチイは東帝となりコンスタンスは西帝となりました。東帝になったコンスタンチイは、アリイ党を受け入れ恩恵を与えましたので彼らは再び勢いを得ることになりました。

 彼らは皇帝にアファナシイをアレキサンドリヤに帰したととは違法であると奏上して、ついに他の主教を立てることに決定しました。ところが聖アファナシイに深く心服している人々は新たに主教に任命されたアリイ党のグリゴリイを公認することを望んでいないので、アファナシイは自らこの都に留ることは紛争の原因になると考え、この地を去ってローマに行きました。西帝のコンスタンスおよび教皇「パーパ」ユリアンは懇切にアファナシィを待遇しました。彼らの保護の下でアファナシイは、無難な歳月を送ることができました。

 けれどもエジプトからの便りでアレキサンドリヤ教会の運命は大いに彼を震感させました。その便りによるとアリイ党である主教グリイは、正教の定理を信じる者を憎んで、聖アファナシイに服従する人々を一層激しく迫害し、一日として厳刑が行われない日はなく皇帝の保護のもとで正教徒に偽教を強要していました。

 その頃ローマとサルテカとで二つの公会が開かれていて、そこでアファナシイについての訴訟が調査されると、彼の無罪が認定されました。そこで西帝コンスタンスは兄にアファナシイを主教職に復させることを要求しました。弱いコンスタンチイは弟を恐れでアファナシイに書を遣わし、その復帰を請い、十分な安全を保証しました。

 聖アファナシイは七年の歳月をローマで過してアレキサンドナヤに帰りましたので、民衆は喜びと祝賀で群をなして彼を出迎えました。彼は愛をもって多くの人々を受けとめて、訓言の力でアリイ党の行った悪を正し、正教を確立するよう努めました。

 ところが平穏は長くは続きませんでした。西帝コンスタンスが反乱兵に殺されたので、東帝のコンスタンチイが再ぴアリイの異端を保護するようになり、アファナシイにアレキサンドリヤを立ち去るよう使いを遣わして伝えました。けれどアファナシィは少し前、皇帝より自分の安全を保証する勅書を得ていましたので、自分の牧群を棄てることはできないとその使者に答えて、自分の運命を泰然として待ちました。

 皇帝の攻撃は時をうつさず来ました。アフアナシイが聖堂で晩祷を献げていますと、突然多くの兵士が聖堂を囲みました。アファナシイは参祷している人々を危険に陥し入れることを望みませんでしたので、逃げるよう命じました。しかし誰一人として逃げる者はなく、皆愛する主教を保護しようとしました。

 兵士らは聖堂に押し入り剣を抜いて数人を傷つけましたが、多くの人々は聖堂にとどまり、奉神社は続行されました。そこに居る者たちは輔祭に和してダウイド王の尊厳なる聖詠を歌い『主を讃美すべし。けだしその憐れみは世々に至らん。』とくり返えしました。
 祈祷が終わると教役者たちは主教を誘引し、人々が帰った後、暗に乗じて敵の手から脱することができました。

 アファナシイはしばらくの間、アレキサンドリヤ城中の敬虔な婦人の家に潜んでいましたがその後エジプトの荒野に脱れました。彼を追って兵士たち加その荒野を捜索しましたが、そこに住む修道士や遁世者らは心よりアファナシイを信服していましたので、自分たちの生命を犠牲にしても主教を敵に渡すまいと努めたため、ついにアファナシイを捕えることはできませんでした。

 その後アファナシイは転々と身を隠しましたが、行く先々で教訓をもって正教を固め偽教を放逐しました。多くの人々は、真理のために難を受けながらもたゆまない精神と信仰を持ち続ける人の言葉を謹しんで聴きました。

 この頃アレキサンドリヤの教会では、残忍で欲深い主教ゲオルギイがアファナシイの地位を奪い権力を握っていました。異端者たちはハリスティアニンを迫害し、厳刑を課しました。それは、皇帝コンスタンチイが死ぬまでの六年の間続けられ、平穏な日は一日もありませんでした。

 皇帝コンスタンチイの死後、皇帝ユリアンが即位しました。この皇帝は初めハリストス教を憎む心を隠し、仮面をかぶって、追われた人々を配所より召し返しました。そこで聖アファナシイは荒野から再ぴアレキサンドリヤに戻りました。教会では主教ゲオルギイの残忍な行為に堪えられなくなって民衆が彼を放逐して、主教部は無所属となっていました。  皇帝ユリアンがアファナシイを召し返したのは、彼と争論して言いくるめてハリストス教を迫害しようという計り事に力を添えるようになるだろうと考えたからでした。ところが彼は、聖アファナシイが一層ハリストス教の真実の敬度さを弘布し、堅立しようとする説教を聞いて、アファナシイに対して新たな迫害を始めました。

 そこでアフアナシイは追手の兵の捜索を逃れ、再びエジプトの修道院や隠家に潜伏しました。これらの迫害は彼の剛毅をたゆませるには足りませんでした。
 彼は自分を慰めようとする修士たちに次のように語りました。  『信じなさい。私の心は平安な日々においては、迫害を受けている日々ほどには満たされません。それは、私はイイスス・ハリストスのために難を受けつつ、その恩寵によって信仰を固められ、たとえ殺されてもさらに大いなる主の憐れみを得ることができると確信しているからです。』

 聖アファナシイがアレキサンドリヤから逃れている間に、皇帝エリアンはわずか二年で亡くなり、次の皇帝イオワイアンが位につき、教会に平和が与えられました。そこでアファナシイはアレキサンドリヤに帰ってきました。

 ところがアリイ派の熱心な服従者ワレント帝の時になって、再び彼は荒野に遁れ、荒れた古墳の中に潜みました。けれどアレキサンドリヤの住民たちは、皇帝に主教を返してくれるよう嘆願してやめませんでした。皇帝は反乱を恐れ、聖アファナシイがまた主教職に戻ることを許しました。

 聖アファナシイは末年アレキサンドリヤに往み、つねに異端と戦い、騒乱した教会に平和と一致をもたらそうと尽力しました。そして、聖アファナシイは三百七十三年八十三才でこの世を去りました。