主は入る
      第九福音(イオアン伝二十章十九節から三一節)

 事件を伝える福音記者が語るこの「閉じた門」とは何を意味するのでしょうか? 福音が伝える事件には必要が無いのに書かれたものはただの一行もありません。日曜日の「夕方」、この夕方というのは新しい説明なのですが、イイススは閉じた門を通って門徒たちの所へ来られました。

 門徒たちの部屋の門は、閉じていました。私たちはそれがなぜか知っています。彼らは三年前には世を捨てて、イイススに従い他のいっさいを拒否しました。けれどイイススは彼らを離れました。師の処刑に続いて市ではイイススに帰依した者たちの処刑もまさに行われようという気分が盛り上がっているかのようです。生命に対する恐怖はペトルとイオアンが朝墓に行ってそこが空っぽであるということでいっそう激しくなっていました。イウデヤ人たちがイイススの体を盗んだのではないでしょうか? しかしこの部屋にはマリヤ・マグダリナ、イアコフのマリヤ、その他の婦人たちがいました。彼女たちは異常な事件の目撃者で、主に会い、墓の側に座っている光りを放つ白衣の人と会ったことを語っています……門徒たちは生命の危険を忘れようにも、婦人たちの知らせはあまりにも異常でした。門徒たちを悪人にして、師であるイイススと同じく彼らをも殺すために、イウデヤ人たちが師の体を盗んだのではないでしょうか? ……何よりまず、集まった部屋の戸締まりをよくしなければなりませんでした。

 すると、この閉じた門を通って、ハリストスが入ってこられました。この状況は門徒たちの心の状況と重なります。
 このことを考えてみましょう。もしハリストスの門徒たちの霊の門が、ハリストスに向かって開かれていたとしたら、彼らはその部屋を閉じることができたでしょうか? もし復活したハリストスのかすかな声でも聞いたとすれば、彼らは狂信的なイウデヤ人側からの危険も、官憲からの危険もいっさい無視したでしょう。集まった部屋の門を大きく開き、喜びの恐怖と、戦慄の期待とで門に立って待ったに違いありません。