従順
      第十福音(イオアン伝二十一章一節から一四節)

 人々は漁夫として働き、荒海に自分の食を求めています。あたりは夜です。労働はむなしく終わり、食べるものとてありません。しかしやがて暁となり、地上にくっきりと救い主の姿が描き出されます。暁が救い主を呼んだとも言えましょう。人を助けるために来られたハリストスは、はじめて世界と語り始め、「子たちよ、何か食べ物はあるか」、と問われました。人々は「いえ、私たちは一晩中働いたのですが一匹も獲物がありません」と答えます。真理は私たちにはありません。人々は藉身(受肉)した神に対して、その来られた意義は何かと考えようともしません。そして世界がその仕事の結果の悪いことを認めると、ハリストスは相変わらず遠くから、あなたの舟の右側に網を打ちなさいと言われます。人々は網を打ちました。すると今度は魚が多くて、網を引き上げることができないのです。世界は、ハリストスの命令をわずかに聞いたにすぎませんが、今や地上は聖神の果に満ちあふれました。この偉大な聖神の力に、世界は堪えることができないのです。生活の海の上での徒労に終わった人間の努力の夜、そしてハリストスに従う一瞬、美しい果に満たされたハリストスの恩寵の一瞬です! 「我なくして爾等は何事も行う能わず」です。真摯な人々はすぐに主を知ります。果によってそれをなさったハリストスというお方が知られるのです。イオアンはペトルにこの方は主であると言って、ペトルは他の者といっさいを放棄して海へ身を投じます。それはただハリストスと楽しいいっときを送るためです。ペトルは、ラザリの姉妹マリヤのように行動し、いっさいを捨ててハリストスを見るという最上の幸福を享受するために突進していきます…… しかしハリストスは必ずしも私たちすべての者に対し「主を見た以上いっさいを捨てよ」と命じるのではありません。私たちは他の門徒たちと共に、舟に乗ったままで、獲った魚と網を引きながらハリストスのもとに渡って行ってもよいのです。そしてハリストスの力によって人生において善い行いをして、ハリストスのもとに至り、近くに輝く永遠の岸を目指しながら、自分の網を引きながら主のもとに渡り行くということも、ハリストスの門徒にとってふさわしいことなのです。