中学生の質問にお答え

千葉県のある中学校より、お手紙が届きました。社会科の授業で宗教を取り上げたところ、各宗派・宗教に手紙を出して直接、教えてもらうのがいちばんということになったそうです。私たちも、質問を受け、名古屋教会司祭ゲオルギイ松島が回答しました。中学校の担当の先生にご了解をいただきここに、その質問と答えを紹介させていただきます。


はじめに

 キリスト教は中世の初めまで、自分たちのことを「聖なる公なる使徒の教会」と呼ぶ一つの教会でした。その後、いろいろな歴史的事情や教えの違いによって、ローマ教会を中心とする西ヨーロッパの教会が分かれてゆき、今日「ローマ・カトリック教会」と呼ばれる教派になりました。さらに、一六世紀になってローマ・カトリック教会から、その教えや教会のあり方に反対する人たちが現れ、プロテスタント教会が生まれ、プロテスタント教会はさらに分裂を繰り返し、現在では数え切れないほどの教派があります。
 ここで、皆さんの質問にお答えするのは、教会が一つだった頃の教会がそのまま、中近東、ギリシャ、東欧、ロシヤなどの地に伝わり、今日まで続いてきた「正教会 Orthodox Church」に属する、日本正教会の司祭(いわゆる神父さん)です。どうぞよろしく。
 他のキリスト教の教派の方からいただいたお答えと少し違うなって、感じる所があるかもしれませんが、キリスト教の本来の伝統的な教えや習慣をしっかり保ってきたのが正教会です。ぜひ、ほんとうのキリスト教って何だろうと興味を持って学んでください。
 神父さんは、みなさんがどのような本を読んでいるのか、どんなことを学んでいるのか、詳しく知りませんので、ちょっと難しい言葉が出てくるかも知れません。わからないことがあったら、遠慮なくまた質問してくださいね。

 ではご質問にお答えしましょう。一つにまとめてお答えした方がわかりやすいものはまとめさせていただきました。

1、開祖は誰ですか
2、いつ頃から始まったのですか
3、どこで始まったのですか
4、この宗派の目的は何ですか
13、天国や地獄はあるんですか
14、「生まれ変わり」はあるんですか
32、教会は何のためにつくられたのですか


 もしキリスト教が、誰かが「あたま」で考え出した「教え」をもとにした宗教なら、その誰かが「開祖」ということになりますが、キリスト教はそういうものではありません。旧約聖書に伝えられているように、神さまと人とは長い交わりの歴史を持ちます。それは、人間は本来とてもステキなものとして神さまに創造されたのに、神さまに背いたために、そのせっかくのステキさを失ってしまい、惨めな姿でこの世をさまよう歴史、そしてその人間に対する、神さまの愛による怒りや悲しみや赦しの歴史です。

 そんな歴史の中で、人間は、神さまの愛に応えようと、神さまの怒りをなだめようと、神さまに赦していただこうと、神さまに礼拝する(祈る)ことを始めました。キリスト教はその時にすでに始まっていたと言ってもいいのです。

 ただ、神さまと人間との関係は、イイスス・ハリストス(イエス・キリストの日本正教会での呼び方。日本のキリスト教の教派の採用する呼び方の中で、いちばんもともとのギリシャ語の発音に近いんですよ)が、今日のイスラエルのベツレヘムという町に生まれた時に大きく変わりました。イイススは成長し、三十歳の頃、人々に教えを宣べはじめました。不思議な力でたくさんの病人たちを癒しました。そのころユダヤの地を支配していたローマ帝国の圧制に苦しんでいた民衆は、イイススを「救い主」として歓迎しました。やがてユダヤの宗教的指導者たちは、ますます人気が高くなるイイススによって、自分たちの権威が失われてしまうことを恐れ、ついに、イイススを捕らえ、十字架にかけて殺してしまいました。
 埋葬されて三日目に、女のお弟子さんたちがお墓に行くと、そこは空っぽで、天使が「主はよみがえった」と告げました。やがて、お弟子たちの所に復活したイイススが現れました。その時、お弟子さんたちは、イイススが「神の子」、真の「救い主」(ハリストス)であることを、心の底から確信したのです。

 イイススは四十日間お弟子さんたちとともに生活を共にし、ついに天使たちにともなわれて、父なる神のもとに昇りました(「昇天」)。しかし、イイススは、お弟子さんたちにあらかじめ約束していたとおり、聖神(「聖霊」の日本正教会訳)を天の父なる神のもとから、地上にお遣わしになりました。この聖神を受けて、お弟子さんたちの内に、どんな困難にも負けない力と知恵と愛があふれました。そしてお弟子さんたちは、「神の子」が、私たち人間のために十字架で死に、なんと三日目に復活したこと、これを信じる者に、罪の赦しと永遠の生命を、言い換えれば「人間のよみがえり」を約束してくださったという「福音」(喜びの知らせ)を、世界中に伝える「使徒」となりました。

 その時、今日まで続く「教会」が、ハッキリ目に見えるかたちで存在しはじめたと言っていいでしょう。「教会」はこの使徒の働きを受けついでいます。
 この出来事が起きたのは紀元三十年頃といわれています。

 キリスト教とは、使徒たちが世界各地に設立した教会が、今日まで宣べ伝え続けている「福音」であり、この福音を信じ「洗礼」を受け教会のメンバーとなった信徒たちが集う「聖体礼儀」(カトリックでは「ミサ」、プロテスタントでは「聖餐式」と呼びます)という礼拝を中心とした祈りの生活であり、そこで教えられる聖書にもとづく教えであり、その教えによって導かれる「愛」を最も大切なものとする生活のあり方です。

 このような教会のあり方をしっかりと守り、多くの人々を教会に集め、いつ起きるか神さまだけしか知らない「ハリストスの再臨」*に備えさせること、これがキリスト教(教会)の目的です。

*ハリストスの再臨 ハリストスが再びこの世に来られ、全ての死者を復活させ、その時生きている人々とともに、生前の生き方に従って一人一人を永遠の生命か、永遠の地獄かに裁きます(最後の審判)。

5、他にも宗派があるのに、なぜこの宗派か

 ちょっと、ご質問の意味がわかりません。他の宗派とは「他の宗教」のことでしょうか、それともキリスト教の中の「他の宗派」のことでしょうか。また、なぜこの宗派かというのも、なぜこの宗派(宗教)がいちばん優れていると言えるのかという質問でしょうか、でなければ、なぜ質問に答えるこの私がこの宗派(宗教)に入信したのかということでしょうか?
 
6、一番偉い人はどうやって決めるんですか

 「一番偉い」というのを、「一番権威がある」という意味で考えるなら、ハリストスが「一番偉い」のです。教会は聖書の中でも「ハリストスをかしらとする、ハリストスの体」と呼ばれているほどです。
 教会の目に見えるメンバーや組織の中で、一番権威があるのは、各地の教会のリーダーである主教(ローマ・カトリックでは司教といいます)たちの会議です。主教会議は参加者たちが神に祈り聖神(聖霊)の導きによって行われるからです。主教は強い権限を持っていますが、教会の教えと主教会議の決定には従わなければなりません。
 ところがローマ・カトリック教会では、ローマ教会の司教(主教)であるローマ教皇が、地上での「ハリストスの代理人」として、絶対的な権威をもっています。私たち正教会は、そのようなローマ教皇の権威は認めません。
 正教会では、主教たちはみな同等です。主教が代表する一つ一つの教会は、それぞれが神さまの祝福のもとにある「完全なハリストスの体」であって優劣はないからです。

 教会はいろいろな方法で主教の候補者を選びます。候補者は三人以上の他の主教が参加する「神品機密」という儀式によって、正式に主教となります。主教候補者がキリスト教を正しく理解していることを、他の複数の主教が認めることによって、教会が間違った方向に進むのを防ぐわけです。

7、位などはあるんですか

 教会には礼拝を秩序正しく行うため、また教えを正しく伝えるため、信徒の信仰生活・実生活上のいろいろな問題に正しい指針を与えるために、三つの主要な役職が古代から伝えられています。主教が教会のリーダーです。主教から権限を与えられて主教に代わって仕事をするのが司祭です。主教や司祭の仕事を補佐するのが輔祭(カトリックでは助祭)です。また一般の信徒も、様々な活動によって教会に奉仕します。これを、「誰が一番偉い」かを表す順序として理解してはなりません。あくまで役割の違いです。

8、経典はどんなものですか

 教えの中心になる文書という意味なら、旧約聖書・新約聖書でしょう。ただ、新約聖書には二十七の別々の文書が集められていますが、これら全部を全教会が「正典」として認めるようになったのは、教会が成立してからずっと後のこと(四世紀のはじめ頃)ですから、コーランがなければイスラム教が成り立たないというような意味での経典は、キリスト教にはなかったといっていいでしょう。

9、結婚式のしきたりは
12、違う宗教の人と結婚できますか


 キリスト教では、結婚は、キリスト教的な夫婦や家庭の理想を分かち合う男女が、教会という共同体の中に新しい家庭を営むことです。結婚式は、そのような新家庭へ祝福と恵みを与える儀式ですから、信徒同士の結婚でなければ、教会では結婚式を行いません。(ただし他の教派には異教徒でも結婚式をしてくれるところもあると聞きますが、正教会はそれは間違いだと考えます)。
 ただ、違う宗教の人との結婚を教会は祝福しませんが、禁止しているということではありません。

 でも同じ信仰、同じ人生についての考え方を持つ者どうしの結婚は、とてもすばらしいものだと思いますが、いかがですか。

 結婚の約束のしるしである指輪の交換と、新郎新婦に冠をかかげること、ぶどう酒を三口づつ三回に分けて交互に飲むこと、などが結婚式の主な内容です。正教会の結婚式は、他のどんな宗派にも負けない、とても美しい儀式です。ぜひ、一度、東京のニコライ堂に問い合わせて見学にいってください。

10、お葬式のしきたりは

 臨終が近づいたら司祭を呼び、臨終のお祈りをします。息を引き取ってから三日目に埋葬式を行いますが、その前夜には前夜祭の祈りが行われます。永眠者(死者のことを正教会ではこのように呼びます)は本来土葬されます。これはハリストスの復活のおかげで、人間の死は「終わり」ではなく、主の再臨の時に実現する全死者の復活までの「眠り」にすぎなくなったことを、表すためです。残念ながら、日本では土葬が許される都道府県が少なく、ほとんどの場合やむなく火葬しています。

11、成人式のしきたりは

 成人式に当たる儀式は特別に教会で定めたものはありません。ただ、新成人のために、祝福の祈りや感謝の祈りをいたします。

13、天国や地獄はあるんですか

 キリスト教でいう天国を、なにか別世界にある特別な場所と考えてはなりません。天国は「神の国」を言い換えたもので、神さまと人間が直接ふれあい、人々が神さまの愛のもとに集う生き方そのものです。その神の国は、教会という形ですでに始まり、たえず成長していますが、完成するのはイイスス・ハリストスの再臨の時です。その時、世界は全く新しい輝きに満ちたものとして造り替えられ、最後の審判で祝福された人たちは「永遠の生命」のあふれる「神の国」へ入れられます。
 地獄も同様です。神さまに背き、人を憎んだり、争ったり、ひとりぼっちの世界に閉じこもったりしている生き方そのものが地獄です。生きている間に、そういう自分勝手な、愛を忘れた生活をしてきた人たちは、最後の審判の時、今度は目に見えるかたちで、神さまが示される「永遠の地獄」に入らなければならなくなります。

14、「生まれ変わり」はあるんですか

 人間が死んで次の世では犬や猫に生まれ変わるというのは、仏教の輪廻の考え方です。キリスト教にはそういう考え方はありません。死後、人はしばらく眠りにつきます(永眠)が、やがて、ハリストスがこの世に再びやってくるとき、新しい体を与えられて復活し、生前の生き方に応じて裁かれます。

15、この世の始めと終わりはどうですか

 この世界は、神さまによって「無」から創造されました。その時が「始まり」です。「無」からの創造というのは、なかなか難しい考え方ですが、ギリシャ神話や日本の神話に出てくるように、永遠の昔から「世界の材料」みたいなものが存在して、ある時、神々が、それに形を与えて世界ができたという考え方と正反対のものです。
 この始めの時から世界は、終末(終わり)に向かって歴史を刻んでいきます。終末には、ハリストスが天から再び地上に来られ、人間と世界を新しく造り直し(復活)、永遠の「神の国」が始まります。「神の国」がどのようなものかは、私たちにはハッキリ教えられていません。ただ、「光栄から光栄へ」(「コリント人への手紙」にある言葉)、つまり、最高にすばらしいものから、それ以上に最高にすばらしいものへ、人と世界が永遠に変えられていく、そんな時と場所であることは、新約聖書にほのめかされています。 

16、「修行」にはどんなものがありますか

 キリスト教では、最初の人間であるアダムとエヴァが神さまに背いてから、人間は弱く罪を犯しやすいものになってしまい、もう自分自身の力だけでは善い人間になれないと考えます。自分の力だけに頼るのなら、どんな修行をしてもむだというわけです。
 そこで修行以前にまず信仰が必要になります。
 どんなことを信じるのかというと、
 まず、神さまが、人間の悲しく惨めなありさまを哀れに思って、「神の子」イイスス・ハリストスを処女マリヤから人として誕生させたこと、
 次に、この「人となった神」ハリストスの救いのみわざ(十字架刑による死と三日目の復活が中心)によって、人間に「よみがえり」が与えられたこと、
 さらに、洗礼を受けることによって、私たち一人一人はその「よみがえり」を自分自身のものにできること、です。
 クリスチャンはこの信仰によっていただいた神さまの「恵み」に育てられて、少しづつ神さまがお喜びになる姿に成長していこうと考えます。

 したがって、キリスト教の修行とは、自分の力に頼らず、聖書を通じて教えられる神さまの言葉に素直に聞き従い、神さまのくださる恵みを、心から感謝して受け取れる謙遜さ(へりくだり)を身につけることです。
 修道院とは、この忙しい世界を離れて祈りと修行に専念する場所です。この世の楽しみや、財産や、家族をみんな捨てて(あきらめて)、修道院で一生を過ごすことを決意した人たちを修道士といいます。
 でも、この世での様々な義務や責任を果たすために修道士になれない人たちもたくさんいますが、そのような普通の信徒も、実は、修道士たちと同じ意味を持つ修行を、「この世」といういっそう厳しい場の中で、行っているのです。

17、どんな修行が一番つらいですか

 キリスト教の修行は、わざわざ人間の肉体を痛めつける「苦行」ではありませんので、肉体的な「つらさ」というのはそれほどありません。しかし、自分の心が、ほんとうに神さまの助けなしには救われない惨めさな状態にあることへの自覚が必要なので、厳しく自分を見つめることが求められます。自分をけっこう「いい人」だとうぬぼれていた人が、実は自分はとっても罪深い人間だったことに気づかされていくのですから、これはつらいことでしょう。
 でも、神さまがそんな自分を赦してくださり、新しい自分によみがえらせてくださる希望があるので、このつらさには耐えられます。

18、女性の地位・位置はどうですか

 女性をさげすんだり、汚らわしいものと考えることは一切ありません。
 ただ、人間が、神さまによって男と女に作られたのは、それぞれの異なった役割を果たすことを求められているためですから、教会の中にも、男の役割、女の役割の区別があります。

19、どうすれば入信できますか

 まず教会に行って、お祈りや学びの会に参加し、自分の信仰を確かめます。信仰は趣味や「心のおしゃれ」ではなく、自分の一生涯をかけて、神さまに向かって歩んでいくことですから、ほんとうにその決意があるのかをしっかり確かめなければなりません。そのうえで洗礼を受け、教会の正式のメンバーになります。仏教のように、なんとなくいつのまにか信者になるというのではなく、洗礼を受けたときから信者となるのが、キリスト教の特徴ですね。

20、やめることも自由ですか

 どうしても信じられないという気持ちになってしまった人を、無理やりに、教会に引っ張ってくるようなことは絶対にいたしません。キリスト教は人間の自由を大切に考えるからです。ただ、洗礼は神さまが人間を造りかえてくださることですから、本人は神を捨てても、神も教会も、その人を捨てません。その人がいつか立ち戻ってくるように祈り続けます。

21、タブーを教えてください

 タブーという言葉で、どんなことを意味しているのか、チョットわからないので、答えにくいですね。

 旧約聖書には、汚れた動物のリストがあって、ユダヤ人たちは、それらを決して食べませんでしたが、ハリストスとそのお弟子たちはそのような決まりから人間が自由になるべきだと主張しました。従って、キリスト教には食べてはならないものはありません。ただ、心を神さまに向けさせるのにふさわしくするために、曜日や、期間を定めて、動物性食品を食べない時期があります。これを斎(ものいみ)といいます。水曜・金曜、それから復活祭などの大きなお祭りの前に、一定期間の斎がもうけられています。今では、おそらく正教会だけがこの古代からの習慣を守っているのではないでしょうか。これは、タブーというものではありません。守れなくても、各人が自由な意志で取り組むことですから、それによって、教会から追放されるというようなことはありません。
 ほかにも、いくつか「信徒の心得」はありますが、いずれも、タブーという性質のものではありません。

25、お祈りの仕方を教えてください
35、一日何回祈りをささげるのですか


 教会で日曜日に信徒が集まって行う「聖体礼儀」というお祈り(礼拝)が中心です。ここでは、神さまを讃え、感謝し、世界中の人々の平安を祈り、パンとぶどう酒をささげ、神さまのお力によって、パンとぶどう酒そのままでありながら「ハリストスの体と血」に変化した「聖体血」を、信徒みんなで分かち合って食べます。
 家庭でのお祈りも、朝晩食事の前などに行われます。
 修道院では、毎日、晩課、晩堂課、夜半課、早課、一時課、三時課、六時課、聖体礼儀、九時課が繰り返されます。

26、神のお使いとか象徴はありますか
31、なぜみんな十字架を持っているのですか


 エンジェルは「天使」「神使」とも翻訳され、神さまのためにはたらく、霊的な(肉体を持たない)存在です。天使の中で神さまに反抗して堕落したのが「悪魔」です。天使は神さまとは全く別のもので、神の象徴といったものではありません。
 目に見えない神の働きを、目に見えるかたちや動作で象徴するものは、教会にはたくさんあります。十字架も神の子「ハリストス」の救いの象徴ですし、十字を胸に手で描くのも、ハリストスへの信仰の象徴です。他にも数え切れないほどの象徴が教会にはあります。

27、日常の活動はどんなことをしますか

 何も、特別なことはありません。
 信徒は皆それぞれ、この世のいろいろな場所で生活しています。家庭で、職場で、学校で、病院で、電車の中で、街の中で…、神さまがどんなにすばらしい救いを人間に下さったのかを示すのが、信徒の日常です。それは、言葉だけではなく、むしろ、いつも元気にあふれ、みんなに親切で、失敗や間違いがあっても、神さまにごめんなさいと祈って、また元気を取り戻して生きていく、そんな一人一人の信徒の生き方を通じて、神の子・イイスス・ハリストスの救いが、ほんとうに人にイキイキした人生へのよみがえりを与えてくれるものであることを、伝えます。

28、目に見えない「神」がなぜ「いる」のですか

 「神」がいて、人生に目的や意味を示し、その目的を達成するために力を与えてくれるんだと信じて生きる生き方と、「神」などという目に見えないものは存在しないのだから、人生には目的も意味も特別にはなく、人はその人なりに勝手気ままに生きていけばいい、もし何も楽しいこと、気持ちいいことがなくなったら自殺しちゃってもいいんだという、生き方があります。どちらを選びますか?
 あなたが、一人のお友達を善い人だと信じてつきあっていると、だんだんと、友達の善いところがたくさんわかってきて、ほんとうにその友達が善い人だということがわかってきます。いやなやつだと思って生きていると反対のことが起きます。それとよく似ていますね。神さまがいると信じて生きることによって、少しづつ神さまが「いる」ことがわかってくるのです。

 人間がその感覚で知っていることが全てではないことは、目の見えない人にとって色や光はないに等しいのですが、それでも色や光はちゃんとあるということからも理解できるでしょう。
 愛が、友情が、やさしさが目に見えますか。目に見えませんね。でも確かにあるでしょう。それとも、目に見えないから、そんなものは信じませんか。
 愛や友情ややさしさというものも、実は、目に見えない神さまからの目に見えない贈り物なのです。

29、いわゆる「オウム事件」について

 目に見えない神さまへの人間のあこがれは、とても深く、強い力を持っています。ですから、間違った方向に行くととんでもないことになります。その例が「オウム事件」です。何千年もの歴史のなかで、その確かさが確かめられた伝統的宗教がもっと真剣に、若い人たちの、本来人間として自然な宗教への関心を、きちんと吸い上げてあげなければならないと思います。

30、信者はどのくらいいますか

 キリスト教全体の統計は、百科事典などでお調べ下さい。正教会の信者は世界中で二億人以上ですね。日本では一万人ほどです。

33、聖書は誰が何のために書いたんですか
40、聖書は必ず読まなければなりませんか
42、聖書の内容を教えてください


 現在キリスト教が用いている聖書はおよそ二千年近くかかって書き記された様々な文書を寄せ集めたものです。それは、それぞれの時代の、指導者たち、祭司たち、預言者たち、詩人たち、また新約聖書ではハリストスの使徒たちが、神さまから特別のお力をいただいて書き記しました。神さまが人間に教え伝えたいメッセージを知るための、大変重要な啓示(本来目に見えない神さまが人にご自分を示すこと)です。
 旧約聖書は、天地創造の物語からイイススがこの世に生まれる直前までの、人類と、特に神さまが人間の救いの突破口としてお選びになったユダヤ民族の、神さまとの関わりが、歴史物語、律法(守るべき戒め)、礼拝の歌、預言者たちの言葉など、さまざまな種類の文書で描かれています。
 新約聖書は、ハリストスの生涯とそのお言葉を伝える四つの「福音書」、使徒たちの働きを記録した「使徒行伝」、聖パウロや他の使徒たちの「手紙」と、この世の終わりのことを不思議な象徴をたくさん使って暗示した「黙示録」によって構成されています。

34、キリストはほんとうに生き返ったんですか

 ハリストスの復活は仮死状態から蘇生したのとは違います。三日目によみがえったということは、完全に死んでから、ふたたび生命を得たということです。しかも、お弟子さんたちの隠れている部屋に、閉ざされた扉を通じて入って来れるような不思議な「新しい体」をもってよみがえりました。それでも幽霊ではないということを教えるために、お弟子さんたちの前でお魚をむしゃむしゃ食べたり、十字架に釘づけられた傷を見せて、さわって見なさいと命じたりしました。
 ほんとうに不思議なことです。でも、これを信じなければキリスト教ではなくなります。このハリストスの復活を信じてこそ、終末の時の全人類の復活への信仰も、私たち一人一人の洗礼による、また悔い改めによるよみがえりへの信仰も確かなものとされるのです。

37、神さまはどこにいて何をしていますか
38、神さまは人のような外見をしていますか


 私たち一人一人の心の中も含め、あらゆるところをその働きで見たし、この世界をたえず見守り、よいものを与え続けておられます。それ以上のことは、その「外見」も含め、人間は知る必要はないので、教えられていません。

39、うそをついても天国にいけますか

 人はどんなに悪いことをしても、心から悔い改めるなら、神さまはおゆるしになります。
 うそについては、愛のためにつくうそと、悪意から出たうそがあります。愛のためにつくうそは、神さまはおほめになるでしょう。何でもかんでも、ほんとうのことばかり言うことが善いことでしょうか。ほんとうのことを正直に告げることが気の毒な人がたくさんいませんか。

41、キリスト教でない人が十字架を持ってもいいんですか

 信仰していない人が持っても、意味がありません。
 信仰は真剣です。その真剣さの象徴であるものを、単なるおしゃれで身につけて何とも思わないというのは、ちょっと、考え直して欲しいな。
 でも、少なくとも「かっこいい」と思ってくれていることは、やがて、真剣に、十字架を通じて、イイススのことを考えてくれるきっかけになるかもしれないんだから、「いいじゃない」という意見もあります。
 複雑な気持ちですね。

42、天国にはどうやって行くのですか

 天国にはどうやっていくのか、つまり最後の審判の時に、永遠の生命をいただくためにはどうすればいいのか。簡単です、神さまがお喜びになるような生活をすることです。つまり、それまでの神さまに背いていた生活を悔い改め、ハリストスの救いを信じ、ハリストスの教えた生き方を生きること、つまり「愛」です。仲直りできていない人がいれば赦し、仲直りし、人をいじめたり困らせるのをやめ、反対に、弱い人たちを助け、困っている人たちに親切にし、悲しんでいる人を慰めてあげることです。
 キリスト教のことを全く知らないで生涯を送った人でも、同じような愛の生活を送った人は、永遠の生命に入れられるでしょう。