かくも耳に甘くやさしき・・・ほめ言葉
――聖山アトスの長老パイシイとの対話――

――長老様、たとえば傲慢な人がいたとします。そういう人は、自分が善いことをするといつもそれを言いふらさずにはおられないものでしょうか?

――なあに、言いふらそうが言いふらすまいが、どのみちカムフラージュされた自己満足が内面に巣食っておるものじゃ。

 先日、わしのところに人が来た。初めからおしまいまで自分のことばかり話しよる。それだけならまだしも、言葉の合間に必ずこう言うのじゃ。『神をたたえるためにこう申すのです』。耳にたこが出来るかと思ったほどじゃ。

 そこで、わしは慎重にこう注意してみた。『ひょっとして神様だけでなく、お前さん自身をたたえる分も少しはまじっていないかの?』

 『そんなことはありません。神をたたえたい一心でこう申すのです』

 この人は、自分の心配事を打ち明けたかったのではなく、ただ自分の成功譚を話したかっただけなのじゃ。『神をたたえるために』とは言うものの、その実は自分を満足させるためのおしゃべりだった、というわけじゃ。

 いずれにせよ、自分がした善い行いを人に話して誇りに思う人間というのは、いつも何かを失うものじゃ。無駄に働いたばかりか、そのせいで責めを負うことになる。

 これは別な人の話じゃ。いよいよ司祭になろうとしていたところだったので、その前にへんぴな所にある修道院に入った。40日間こもるつもりだったのじゃ。ところが、38日目にそこから出なければならないことになった。そこでこの人は駆けずり回った結果また修道院に戻ってきて、予定通り残りの2日間を過ごしたそうじゃ。どうしてだと思うかね?『叙聖式の前に、修道院に40日間こもった』と、あとでみんなに言うことが出来るではないかの。何と言っても、あの預言者モイセイだって十戒を授かる前にシナイ山で40日間を過ごしたくらいじゃ・・・。だが、こんな風にして神様の恩恵を受けられるものじゃろうか?わしはこう思うのじゃ。どうせなら15日や20日で修道院を出てきたほうがよくはなかったか?あるいは初めから修道院なぞ行かないほうがよかったかもしれん。そうすれば、40日間隠遁したなどと自慢しなくてすんだのだし、その結果、もっと神様の恩恵を受けられただろうに、とな。

――長老様、聖使徒パウェルはこう言っております、『誇る者は主を誇れ』(コリンフ前1−31)。ここに傲慢はあるでしょうか。

――あるはずがないではないかの。傲慢ではなくて、神様への賛美と感謝の気持ちじゃ。わしらがキリスト教徒になれたのが万福を賜う神様のおかげで、それを大いなる名誉であり恵みだと考えるならば、そこに傲慢が入り込むわけがないのじゃ。

 たとえばある人が、神様が信仰篤い(あつ)両親を恵んでくださったことを喜び、その恩恵を受け止めたとする。これは、この世のほめ言葉に甘んじて自慢しているわけではない。まさに神様への感謝を感じておるからにほかならんのじゃ。

――長老様、私はよく不満を感じるし、その上くやしい思いをするんです。

――どんな風にくやしいのじゃ。

――いつもこんな風に考えてしまうんです。「この仕事をするのに私がどれほど苦労したことか。でもみんな分かってくれない。私に敬意を払ってくれない」。

――謙遜と愛の気持ちをもって何かをしたのに、まわりが分かってくれない・・・そんな時くやしい思いをするのは当然じゃな。もっとも、そう思うのは、いくらか猶予の余地があるとはいえ、間違っておるよ。ただし、まわりから認められたいがために何かをするのであれば、さらに悪い。なぜって、それはもはやエゴイズムであり、自分の正しさを証明したい気持ち、まわりに媚びへつらう気持ちの表れだからじゃ。

 出来るだけ謙遜の気持ちと共に行動してごらん。何をするにも善いことをしたいという思い、ハリストスのためにという気持ちを忘れずにな。しかし、へつらいや、人からほめ言葉を聞きたいがための名誉欲は払い落とさなければならん。人がただ神のためだけに勤める時、この世にいるうちから神様はあふれんばかりの恩恵を恵んでほめてくださる。そして、来世では天国の恩恵をもたらしてくださるのじゃ。

――長老様、へつらいの気持ちが善き志と混じってしまうことはありますか?

――悪魔は何でも汚して台無しにしようとするもので、へつらいの気持ちを使って人から善き志を奪うこともある。人は誰でも健全な善き志を持っているものじゃが、自分によくよく気をつけていないと、すぐにへつらいや媚びにとらわれてしまう。そうなったら最後、何をやろうと実りは結ばん。穴のあいたバケツで水をすくうようなものじゃ。けれども、媚びへつらいから生ずるものは何事も実がないと気づいた瞬間、みせびらかしで何かをやろうという気持ちは消えうせるものじゃ。敬意を払ってもらおうとはもはや思わないし、まわりが自分のことをどう言っているかということも気にならなくなるじゃろう。

――でも、どこまでが善い志でどこまでが媚びへつらいの気持ちか、区別できないんです。

――混じりけのない潔いものは、すぐに見分けがつくものじゃ。善い志に導かれると、人は心の中の声を聞く。つまり内面の平安、静けさを感じるものでな。ところが、媚びへつらいは人に不安や動揺をもたらすものじゃ。

――長老様、思うに、私がよく誘惑に陥るのは私の心が完全に神様のものとなっていないからではないでしょうか。

――そうじゃな。一部は媚びへつらいにとらわれていると言ってよかろう。善いことをしようと思ったら、決して媚びる気持ちを入り込ませてはならん。それというのも、努力して為した仕事のごほうびをまるごと受け取るためで、悪魔どもに少しでも益があってはならんからじゃ。そうして心の平安を心行くまで味わうのじゃ。だから、どうして自分がそれをしようとしているのか、理由をよくよく分析してごらん。そこで媚びへつらいの動機に気づいたら、すぐさまそれを切り捨てることじゃ。

 「善きたたかい」(チモフェイ前6、12)に挑む気持ちをもって進んでいくなら、この世にとらわれた動機を振り切ることが出来るじゃろう。そういう動機の芯になっているのは「自分」なんじゃ。それを切り捨てれば、何事もうまくいくようになる。お前さんはもう外面や内面の誘惑に陥らず、心の平安を味わうことが出来るようになるじゃろう。

――長老様、霊的生活を送る上で、なかなか思うように前に進めないのでがっかりしてしまいます。私は毎日前進していきたいのですが。

――よくお聞き。時々見受けられるのじゃが、欲から解放されたいと思い、今より自分をよくしたいと思っているその動機が、神様のためではなく、ほかの人に気に入られたいがためだったりする。ほら、お前さんが霊的生活で自分をよくし、完成させていきたいと思っているのがよい例じゃ。そこでお前さん、何でそうしたいか考えたことがあるかの?何のために?神様により近づくためか、それともほかの姉妹より抜きんでたいがためかの?たとえば、ほかの誰よりも早く教会に行くようにしているとする。奉事に遅れるのはよくないと思うためか、あるいはほかの姉妹からほめられたいためなのか?霊的にものを考える人というのは、まわりの人ではなく、神様に気に入られたいと思うものじゃ。「もしわれなお人を悦ばしめば、即ちハリストスの僕たらざらん」(ガラティヤ1、10)と聖使徒パウェルも言っているとおりじゃ。

――長老様、私は人の前でへまをしないよう気をつけることばかり考えていて、神様の前をいかに正しく歩くかに思いが至らないのです。いつも神への畏れ(おそ)を忘れないでいるためにはどうしたらいいでしょうか。 

――覚醒した心が大切じゃ。何をするにも、たとえどんな小さなことでも、その中心には神がおられなければならん。おのれの全存在を神様に向けるのじゃ。お前さんが神様を好きになれば、どうやったら神様を喜ばせることが出来るか、どうしたら神様に気に入っていただけるか、そのことばかりで頭がいっぱいになるはずじゃ。どうしたら周りの人びとに気に入ってもらえるかなどということは考えなくなるのじゃ。媚びへつらいという重い足かせから逃れるのに、これはおおいに助けになるはずじゃ。なぜって、媚びへつらいこそが、さらに高みへ上がるための障害になっているからじゃ。そうなれば、人の前でへまをしたことで喜び、心の中では甘いイイススの慰めに酔うことが出来るようになる。

――長老様、私はほめ言葉を耳にしたんです。それで・・・・・・

――それがどうしたというのかの?わしらが気にしなければならんのはそのことかね?周りがわしらをどう思っているか、それともハリストスがどう思っておられるか、どちらが大切じゃろうか?わしらにとって動機になるのは周りなのか、あるいはハリストスなのかね?

 お前さんは真面目な人じゃ。だから、軽々しく行動してはならんよ。ほめると言えば、えらい人たちがわしのことをよくほめる。ところがわしはほめられると吐き気がするのじゃ。そんな時は自分で自分のことを笑って、ほめ言葉を遠くに放り出すことにしておる。ほめ言葉というのは腐っておるのじゃ。お前さんも、そういうのを聞いたら、すぐさま自分から遠ざけることじゃ。他人からのほめ言葉をもらって、わしらが何を得るというのじゃ。明日あさってにでも悪魔どもがわしらをあざけりに来るようにするためかね?ほめ言葉を聞いて喜ぶ人間というのは、悪魔どもに欺かれているのじゃ。

 ここにだめになっておる人間がおったとする。つまり、傲慢を病んでいるか、その傾向がある人間という意味じゃが、そうなると世間的なものであろうが、霊的なものであろうが、あらゆるほめ言葉が彼にとって有害になる。だから、気軽に人をほめないことじゃ。霊的に弱い人をほめるのは、まさに相手に害を為すのと同じことじゃ。そのせいで相手が破滅してしまうこともあるのじゃ。

 ほめ言葉というのは、麻薬みたいなもんじゃ。たとえば、教会で説教をするようになった人なら、最初の説教が終わった時に、うまくいったかどうか、聞き手に害を与えないようにするにはどんな点に注意しなければならないか、周りの人に聞いてみることもあろう。人によっては、はげましの意味をこめてこう言うじゃろう。「とてもよかったが、これこれこういう所に気をつければもっとよいと思います」。ところが、傲慢の傾向がある人間というのは、しまいにはただほめ言葉を聞きたいがためだけに他人の意見を求めるようになる。もし「よい説教でした」と言われれば、ほめられたと思って喜ぶし、「よくなかった」と言われれば、おそろしく気に病む。・・・・・・ほめ言葉という甘いドロップでどうやって悪魔どもが人をだますか、これで分かったじゃろう。始めに周りの人の意見を聞いたのは、間違いがあれば正していこうと思ったためで、これはよい動機じゃ。でも、ほめ言葉を聞いてうれしく思いたいばっかりに人の意見を聞くところにまで転げ落ちてしまうこともあるのじゃ。

 ほめられて喜び、満足の気持ちを感じることがあるかと思えば、注意されたり、仕事をきちんとしなかったと言われたりして落ち込む時があるが、これらはすべてこの世にとらわれた心のもので、霊的なものとは何の関係もないのだということをよく知っておくがいいよ。心配も喜びもこの世のものにすぎん。霊的に健康な人間というのは、失敗を指摘されると喜ぶものじゃ。なぜって、そうやって自分の間違いを見ることが出来たからじゃ。何かやろうとしたがうまくいかず、それで神様が目を開いてくださった。次に同じことをする時には、うまくいくじゃろう。でも、そうなってもなお、自分で為したのではなく、神様のおかげと思うものでな。「私一人で何をすることが出来ただろう?神様が助けてくださらなければ、何もかも馬鹿げたことになってしまっていただろう」。こう思う人間というのは、正しい心の状態を保っていると言えるじゃろう。

――長老様、ほめられようと悪く言われようと、つねに同じ気持ちを保ちたいものです。どうしたらよいですか?

――この世の栄光を憎むことじゃ。そうすれば、同じ気持ちでほめ言葉も悪口も受け止めることが出来るようになるよ。

――長老様、どうして私は自分の心がからっぽのように感じるのでしょう。

――それは、名誉を欲する気持ちから来ているのじゃ。周りの人の目に映る自分をなんとか大きく見せようとすると、むなしさを感じるものでな。これこそ、名誉欲がもたらす結果なのじゃ。ところがハリストスはむなしい心ではなく、新しく生まれ変わった人間の心においでになるのじゃ。霊的生活を送っている人びとは、美徳を得ようと一生懸命努力するのじゃが、残念ながらそれにプラスされる何か・・・・・・つまり、自分の傲慢を満足させる何かを得たいとも思っている。社会的な名誉とか、特権とか、そういうものをじゃ。それで、むなしさを感じるのじゃ。満たされた心、心の喜びがないのじゃ。名誉欲が大きくなればなるほど、むなしさも増すもので、それだから人びとはいっそう苦しむのじゃ。

――長老様、私が霊的に前進しようとすると、とてもつらく感じます。なぜでしょう。

――謙遜の気持ちを持たずに進もうとするからじゃ。謙遜の心があれば、困難を感じないものじゃ。だが霊的によくなろうと思っているその努力が名誉欲に裏打ちされたものであったとすると、心に重さ、つらさを感じるものじゃ。

 実をいえば、名誉欲以外の霊的欠点というのは、もしわしらがへりくだって神様の憐れみをお願いするなら、修行の階段を上るのにそんなに邪魔にはならないものでな。ところが悪魔どもが名誉欲でわしらを釣りあげたら最後、目隠しされた状態でせまい危険な小道を歩いていかざるを得なくなる。こんな風に悪魔どもの力の影響を受けてしまうので、わしらは心に重さを感じるのじゃ。

 霊的生活は、俗世のものとはまるで違う。この世では、たとえばある企業が売り上げを伸ばしたいと思ったら、美しい広告を作ったり、ええと・・・・・・そう、ブックレットとやらを配ったり、会社のことを知ってもらうためにいろんなことをしなければならん。だが霊的生活で「会社」が成功をおさめるカギはただ一つ、人がこの世の栄光を憎むことだけじゃ。

――長老様、名誉欲を追い払うにはどうすればよいですか。 

――この世の人びとが追い求めるのと正反対のことに喜びを感じることじゃ。このように努力することだけが、心の領域によい影響を与えるのじゃ。愛されたいと思ったら、誰もお前さんに関心を払わないことを喜ぶがよい。名誉ある場所を望むのであれば、ベンチに座るのじゃ。ほめられたいと思ったら、侮辱されることを望め。侮辱されたイイススの愛を感じるためにじゃ。

 名誉を望むのであれば、不名誉や恥を求めよ。そうやって神の栄光を感じることが出来るのじゃ。そうすれば自分を幸せだと感じるし、この世の喜びすべてを集めた以上の幸せを手に入れることが出来るじゃろう。

(終わり)