真の喜びはハリストスのいますところに
――聖山アトスのパイシイとの対話――

――長老様、私はまったく喜びを感じないことがよくあります。喜びなどというものは、私のためにあるものではないという気さえしてくるのです。

――まあまあ、何を言うかと思ったら!喜びがお前さんのためのものでないだって?だったら誰のものかね。悪霊どものためのものかね?喜びというのは、人間のためのものじゃ。神様は悲しみではなく、喜びだけをもたらしてくださったのじゃ。

――じゃあ長老様、どうして私は時々にしか喜びを感じないのでしょう。 

――もしお前さんの理性が神様のもとになかったら、どうして喜びを感じることが出来るというのかね?お前さんはハリストスをお忘れじゃ。いろんな雑事で頭がいっぱいになっておって、(たましい)についているエンジンがしょっちゅう止まってばかりいるのじゃ。祈りの言葉を唱え、静かに聖歌を口にするがよい。そうすれば、またお前さんは前に飛んでいく。まるでお星さまのように、ハリストスのまわりをめぐることが出来るようになるじゃろう。

人はハリストスの中にあって初めて本当の喜びを感じることが出来るのじゃ。なぜって、ハリストスだけが人に喜びとなぐさめを与えてくれるのじゃからの。ハリストスのいますところに真の喜びと、天上の歓喜がある。ハリストスから遠く離れたところにおる者は、このような喜びを感じはせん。いつも「あれをしてこれをして、あっちに行ってこっちに行こう」などと夢見ることは出来るじゃろう。周りからはそれなりに尊敬されるだろうし、いろいろな楽しみを見つけては、それで喜ぶことも出来るのじゃ。しかし、心は決して満たされることはない。こういう喜びというのは、物質的で、この世のものに過ぎん。この世の喜びというのはたましいを満たすことがないので、人の心はいつまでたってもぽっかり穴が開いたままじゃ。ソロモン王が何と言ったか、覚えているかね?「家を建て、ブドウの木を植え、果樹園を作り、黄金を集め、望むものはすべて得た、けれどもそれらはすべてむなしいものであることを知った」。

 この世の喜びというのは一時的なものでな。その時、その瞬間だけは快いのじゃが、霊的な喜びが与えるようなものはもたらさないのじゃ。そこへいくと霊的喜びというのは、天上の生命じゃ。十字架を負って霊的によみがえった人は、復活の喜びの中に生きることになる。「ああ、復活よ、主の復活よ!」・・・・・・その後五旬祭が来る。この時、聖神の炎が人に宿るじゃろう。そして、すべてが終わるのじゃ。

――長老様、天上の喜びについてお話願えますか。

――わしらが生きているこの世には、天上の喜びと、天上の快楽と二つあってな。それで人は、永眠した後の世界には、何かこの世で経験している以上のものがあるかどうか考えるのじゃな。このような喜びというのは、言葉では伝えきれん。経験してみなければ分からないものじゃ。

――どうしたらそのような心の状態にたどり着けましょう。

――お前さんが喜びではちきれそうになって、言葉ではとうてい伝えることも出来ない・・・そうなるためには、まず二つのことを覚えておくがいいよ。いつも素朴に振る舞い、他人ばかり見ないこと。それと、祈ることじゃ。これを守れば、いつかきっと、お前さんがわしにこう言うときが来る。「長老様、私はどうしてしまったのでしょう?正気ではないのでしょうか?私が感じているものはいったい何なんでしょう?」。そういう言葉にも言い表せない喜びを感じる時が来るのじゃ。

――長老様、そのためには人は自分をよくコントロールしなければならないでしょうか。

――そもそも、どんな時に人が喜びを感じると思うかね?心の中が散らかり放題になっている時じゃろうか?そうではない、心の中がきちんと整頓された時に初めて心の喜びがやって来るのじゃ。このような喜びは、心に翼を与える。活動しておらんで冷え切った心というのは、冷え切った車のエンジンと同じじゃ。動かすためには後ろから押さなきゃならん。活動するとはどういうことかと言えば、醒めた心、注意深い心、教えと祈り、この四つじゃ。これでエンジンがかかって温まり、車も前に進むことが出来るというわけじゃな。そうなれば、人はもう物の外側には関心を持たなくなる。霊的生活の大いなる歩みを始めることになるのじゃ。

――そうなりますと、周りの良くない環境はもう人に影響を与えないものですか。

――そうじゃ。なぜってそういう人というのは、この世にありながら別の世界に住んでいるようなものだからじゃ。だから、この世に心を乱されることがないのじゃよ。周りの人々がしゃべっていても、まるで異国の言葉のようで理解出来んのじゃ。もしちょっとでも分かってしまうと、それで注意がそがれてしまう。人の話す言葉ではなく、自分に聞くことの出来る言葉で生きるようになるのじゃ。心が高く飛び立つというのは、こういうことを言うのじゃ。・・・・・・お前さん、どんな天使が翼を持っているか、覚えていなさるかね?ヘルヴィムか、セラフィムのどっちだったっけ?預言者イサイヤが言ったではないかの、「六翼の・・・・・・」

――セラフィムです。

――セラフィムが何をしているか、お前さん、知っているかね?指揮に合わせて翼をはばたかせているのじゃ。心が飛翔しているというのは、わしらの心臓が鼓動しているようなものなのじゃ。そうすれば、わしらの人生は歓喜に変わる。しかしな、お前さんは今のところ「自分」に縛られきっておるので、心の自由がきかんのじゃ。だから、喜びを感じないのじゃ。まず喜びを感じるようになってから、わしのところに来るがよい。そうしたらまた話し合おうではないか!

――長老様、神の教えのもとに生きる人というのは、誰でも霊的な喜びを感じるものでしょうか。

――当然そうだともさ。人が本当の喜び、つまり霊的喜びを感じるためには、愛さなければならん。愛するためには、信じる必要があるのじゃ。みんな何も信じておらん、だから愛せないし自分を犠牲にしない、したがって喜びを感じないのじゃ。逆に言えば、信ずることで愛するようになり、他人のために自分を犠牲にするようになる。そして、喜びで心が満たされる。・・・・・・もっとも大きな喜び、それは自己犠牲から生じるのじゃ。

――喜びを感じる時に初めて愛することが出来るのですか。

――そうではない、まったく逆じゃ。愛する時に喜びを感じるのじゃよ。愛が大きくなればなるほど、人は自分のためにもはや喜びを求めなくなる。他人が喜ぶことを望むようになるのじゃ。

――それはつまり、喜びというものは何かから結果として生じるもので、かたや愛はそれだけで独立した存在であると?

――その通りじゃ。愛は別に存在するもので、喜びは愛から生じるものなのじゃ。愛を与えると、喜びがやって来る。喜びは、愛を与えた人に与えられるごほうびのようなものじゃ。たとえば、誰かが人に物をくれてやったとする。人はもらった物だけを喜ぶじゃろう。別な人は一つならずすべてを与え、そのすべてのために喜ぶことが出来るのじゃ。何かをもらって喜ぶのは、人間的な喜びじゃ。しかし、与えた時に感じる喜びというのは、神聖な、神のごとき喜びじゃ。このような喜びは、自分自身を与える時に訪れるのじゃ。

――長老様、人が神様を受け入れているかどうか、どうしたら知ることが出来ますか。

――心の中のひそかな喜び、神様からのなぐさめ、こういうものを人が感じているのだとしたら、その人は神様を受け入れていると言えるじゃろうな。

――でも、人が神様を受け入れているにもかかわらず、喜びやなぐさめを感じないということもあるのでは?

――いや、そんなはずはない。どのみち何かは感じているはずなのじゃ。もしかすると、一度とても大きななぐさめを感じたのじゃが、それが弱くなったので、もうなぐさめを受けることがなくなったと思っているだけかもしれん。

――長老様、こんなことがよくあります。よく心の状態に気を配っている時に喜びを感じたのに、しばらくするとそれを失ってしまうのです。どうしてですか。

――神様が霊的喜びをたまわる。それでお前さんは喜ぶのじゃな。でも、神様は後でそれをお取り上げになる。お前さんは失われた喜びを探そうとするじゃろう。そうやって前に進み、霊的に成長していくのじゃ。

――長老様、私はどうしてこんな喜びを感じているのでしょう。もしかして私は自分の罪深さを自覚していないのでしょうか?

――そんなことはないよ。それは、神様がお前さんをキャンデーでうれしがらせておいでなのじゃ。今はキャンデーで、後になったらぶどう酒をもらえるじゃろう。そう、天上で飲まれている、あのぶどう酒じゃ。あのぶどう酒がどんなに甘いか、想像がつくかな?もし人がちょっとでも善き志を持つと、神様はそれをごらんになって、そりゃあ気前よく恩恵をお与えになられる。お前さんがまだこの世にあるうちから、甘い天上のぶどう酒で酔わせてくれるのじゃ。まあ、考えてもごらん。人間を変えてしまうほどの心の変化、そして神の恩恵がおとずれる時に感じる心の喜び・・・・・これはどんな人間も与えることはできん。最も優秀な心臓外科医であってもじゃ。もしそのような喜びを感じたら、出来るだけ長く心にとどめておくよう努めることじゃな。

――神様が霊的喜びをたまわるよう、お願いするべきなのでしょうか。

――喜びをくださいとお願いするなんて、ケチくさいことじゃのう。それなりの条件があれば、喜びなんてものはひとりでにやって来るものじゃよ。もしお前さんがいつも喜んでいたいというのなら、それはもはや自己愛じゃ。ハリストスが何でこの世に下りて来られたかの?愛をもって十字架を負うためじゃろうが。まず十字架に釘打たれ、それから復活なされたのじゃ。

 神の子どもたちというものは、天国やらこの世で感じる霊的喜びやらのために働くのではない。だって父なる神は自分の子どもたちに、労働の代価は払わないものじゃろう?すべては父のものに属するからじゃ。もちろん、恵み深い父として、この世と来世にお与えになられるいろいろな贈り物は別じゃがの。

――長老様、どうしたら心に喜びを留め置くことができますか。

――すべての物事をたましいで見ることじゃ。そうすれば、病気や試練にあってさえも喜びを失うことはないじゃろう。

――そのためには、まず欲や欠点から心を解放しなければならないのではないですか?

――たとえ欲から解放されていないとしても、試練や悲しみが訪れた時、喜ぶことが出来るよ。もし、悲しみを薬――心の欲を治すための薬と思えば、人は喜びをもってそれに耐えるじゃろう。苦い薬だって、飲めば病気が治ると思えば、喜んで飲むじゃろう。それと同じことじゃ。

――でも、どうやって喜びと痛みを結びつけることが出来るのですか。

――霊的に生きる人には、何かこう、驚くべきことが起こるものでな。ハリストスの愛のために耐える人の心は、それが苦しみであっても、喜びに満たされていくものなのじゃ。主が受難されたことに深い同情を寄せる時にも、同じようなことが起こる。ハリストスがわしらの罪のために釘付けにされたことを考えれば考えるほど、それに痛みを覚えれば覚えるほど、神聖な喜びを与えられるのじゃ。そんな時、人は、まるでハリストスが頭をやさしく撫でながらこうおっしゃっているように感じる。「私のことは心配するな」と。

 ある修道女がこう言った。「私には喜びは必要ありません。ハリストスのために悲しんでいたいのです。私のためにハリストスが釘付けにされたというのに、どうして喜ぶことが出来ましょう。どうしてハリストスは私に喜びをくださるのですか」。この時、この人は霊的なものを体験しておった。ハリストスの受難を痛ましく思い、善き悲しみを感じれば感じるほど、ハリストスは喜びをもたらしてくださったのじゃ。ハリストスは、善い意味でこの人の理性をお取り上げになられたのじゃな。

 十字架はいつも復活の前触れで、勝利を、栄光をもたらすのじゃ。十字架を負ってゴルゴダの丘に上られたハリストスは、釘付けにされ、その後父の御元に昇られた。釘付けにされたハリストスは人々の悲しみをやわらげる。十字架を負う人間というのは、神の子イイススの後にしたがう者なのじゃ。

 恵み深いハリストスは全世界の罪と悲しみを自分に負われ、わしらには喜びを残してゆかれた。この喜びを感じることが出来るのは、自分の古い人間の皮を脱いで、ハリストスを中にいだきながら生きる人々じゃ。こういう人たちは、この世にあってもう天の喜びを感じているのじゃ。まさに福音書に書かれてある通りじゃ。「神の国は(なんじ)()の中にあり」。

 このような人々に数多く出会うことが出来たことを神に感謝します。そして、私が神を悲しませるる行いをすることがないよう、助けてくださるよう祈っています。たとえそのような高みに至ることが私にはとてもふさわしくないということが分かっていても。

 この世にあってあなた方が心からの喜びを感じることが出来ますように。そして、永遠の来世では、ハリストスとともに絶えず喜びを感じることが出来ますように。

(終わり)