15、領聖準備 ――愛について

 司祭は私達の贈物を、それが神に捧げられる場所である宝座に運びました。私達は今や、神からの私達に対する贈物――領聖の準備をしなければなりません。私達は司祭の称える言葉に聴き入ることによってその準備をします。
 司祭は私達に向かって「衆人に平安、我等互に愛々すべし」称えます。つまり司祭が私達が神からの贈物を受けるためには、先ずお互に愛し合わなければならないことを告げるのです。イイススは私達が単に自分の家族や友人や教会の人々だけではなく、困っている全ての人々を愛さなければならないと教えた時、愛することの本当の意味をお話なさいました。彼は私達が困っている人は誰でも愛さなけれならないこと、そして他の人々が幸福である時には自分もそれを喜びに思わなければならないことを教えられました。
 私達が誰か愛する時、その人の立場になって考え、心配しその人のために善いことを願わなければなりません。

 「良きサマリヤ人の物語」

 イイススは人々がお互いに、どの様に接しなければならないかを教えようと一つの物語をなさいました。このような物語は譬話(たとえばなし)と呼ばれています。

 或る日、一人の男がイイススに対し、神に喜ばれるには何をしたらよいのかを尋ねました。
イイススは彼に対して、先ず全世界の何ものにもまして神を愛さなければならないと教え、第2には自分の隣人を自分自身と同じように愛しなさいと教えられました。私達が隣人を自分自身のように愛するというのは、私達が実際の自分の生活にあってこの様にありたいと望む全ての善い事柄を、隣人の生活の中にも望むことを意味しています。 しかし、このイイススに尋ねた人は分からないことがありました。そこで彼はイイススに「誰が私の隣人ですか」と尋ねました。これに対するイイススの答えが、良きサマリア人の譬でありました。

 一人の人がイエルサリムからイエリホンへ行く途中、盗賊におそわれました。盗賊達はその男をなぐり衣服やお金を奪って、半死半生の男を溝の中に落として立ち去りました。その道を一人の司祭が通り、地に伏しているこの男をみましたが、そのまますぎ去りました。次にユダヤの社会にあって別の重要な人物であるレヴィトが通りかかりましたが、この傷つき死にそうになっている人の世話はしませんでした。次に一人のサマリア人が来ました。彼はその男が溝の中で苦しんでいるのを見て非常に悲しく思いました。彼は男のところへ行って傷の手当てをし、薬をぬってやりました。

 この物語で特に注意すべきことは、このサマリア人は、イズライリの人々が忌み嫌い全く交際をしなかったグループの人であったということです。彼等はユダヤ人ではありましたが、ふつうのユダヤ人は彼らを嫌い、サマリア人とは口も聞かない状態でありました。
 それでもこの人が傷ついて死にそうになっているユダヤ人を助けたのは、この人がいかに人々を愛する心を持っているかを示すものです。このサマリア人は、単に道すがらにこの人を助けただけではなく、彼を近くの旅館に運んで行って部屋代を払い、更に旅館の主人にお金を渡してこの傷ついた人の世話をしてくれるようにお願いしたのでした。

 イイススは彼に質問した人に尋ねました。「この3人のうち、盗賊におそわれた人の隣人となったのは誰ですか」。その人は「彼に親切にし、世話をした人です」と答えました。
 するとイイススはその人をみつめて言われました。「さあ、あなたも行って同じようにしなさい。」
 この良きサマリア人の物語は、ルカ伝の10章に記されています。