§質問§

 教会で聖歌を歌っていて感じるのですが、どうも、楽譜通りに歌っていないような 気がするんですが。新教の賛美歌の楽譜のようにリズムや強弱などちゃんと表現した 楽譜なら、譜面が読める人ならすぐ歌えると思いますが。

楽譜では歌わない「聖歌」、楽譜で歌う「賛美歌」

 ご指摘の通り、正教会の聖歌譜は「賛美歌」の楽譜と違い、表記通り正確に再現すればそれなりに歌えるというものではありません。試しに簡単な聖歌を譜面通りのリズムで歌ってみて下さい。ギクシャクして全くそれらしくありません。賛美歌ならどんな曲でも、楽譜を再現さえすればたとえ無神論者が歌ってもそれらしく聞こえます。

 正教会の聖歌は本来楽譜で覚えるものではなく、祈りの場に集い、繰り返し歌い、全体の歌声に合わせようつとめているうちに、耳(体)と心で自然に覚えるものです。覚えたのを忘れないため、また、間違ったメロディーを歌ってしまわないためのガイドラインが楽譜です。古代はネウマ記号という音程の上下と長さを示すしるしが祈祷文の上に「ちょいちょい」と書かれていました。その「ちょいちょい」を近代的な楽譜表記に置き換えたのが現在の「聖歌譜」です。変な言い方ですが、歌えるようになって始めて意味がある「楽譜」なのです。

「息づかい<スピリット>」は楽譜では表せない

 楽譜は便利ですが、どんなに精緻に表記しても、生きた祈りとして実際に歌われている歌を息づかいに至るまでは表せません。そして「息づかい」こそが聖歌の真髄です。正教会は、そこは、私たちの祈りを導く聖神(せいしん,、聖霊)く「スピリット」原義は<息>)に委ね、人間による表記を断念します。

聖歌譜の特徴は信仰のあり方を示す

 この関係は正教会の信仰そのものにも当てはまります。福音に導かれた祈りと集いと愛の実践、何より悔い改めと領聖を中心にした使徒伝来のクリスチャンの生活(聖伝)を通じ、神の至高さ、ハリストスの愛の深さ、神聖神(せいしん)の豊かさを味わい、至聖三者・神との交わりを次第に深める、これが私たちの信仰です。この信仰内容を敢えて表記し、異端者や異教徒からの撹乱に備えたのが教理や教義です。間違ったメロディーを歌わないための楽譜にあたります。

 聖書を丸暗記し教理をいくら覚えても、生きた信仰生活がなければ、つまり実際に歌が歌えていなければ少しも「それらしく」ならないのがほんとうのキリスト教の信仰です。したがって、信じているからいいんだではなく、参祷し、領聖し、いっそう豊かな<息づき>をもって信仰生活を「歌える」ようにならなければなりません。楽譜さえ正確に再現すればそれなりに聞こえる、わかりやすい「賛美歌のキリスト教」との違い、信仰の奥行きと柔軟さを、祈りをともにすることの中から体験して下さい。