§質問§

 「常に福(さいわ)いにして」の祈りに出てくる「へルビム」「セラフィム」とは何ですか。また彼らに「ならびなくさかえ」とはどういう意味なんでしょうか?

<答え>


「常に福いにして全くきず無き生神女
我が神の母なる爾を福いなりととなえるは
まことに当たれり
へルビムより尊く
セラフィムに並びなく栄え
貞操(みさお)を壊(やぶ)らずして神言葉を生みし
実の生神女たる爾を崇めほむ」

これは正教徒にとって最もなじみ深い祈りといえましょう。あらゆる機会に歌われます。
ここで、ヘルビム、セラフィムと呼ばれているのは天使の名前です

二つとも最高位の天使たちの名。ヘルビムはアダムとエヴァの追放後エデンの園の入口を守っているので有名です(創世記3:24)。セラフィムは、予言者イサイヤが、彼の見神体験のなかで「六つの翼を持つ」彼らが神の座の上を飛び回り「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その光栄は全地に満つ」と呼び交っているのを見ました(イサイヤ6:1-3)。

「へルビムより尊くセラフィムに並びなく」

 「常に福い」では、全く潔くその身を以て神言葉(ハリストス)を生み生神女(テオトコス)となったマリヤが、「ヘルビムより尊く、セラフィムに並びなく栄え」、即ち天使たちに勝るとも劣らないと賛美されています。ここには、福音が伝わっていったギリシャの宗教や哲学また古代教会の周辺に繰り返し現われたグノーシス主義的な異端派の、「天使のような純粋に霊的な存在こそが完全なもので、人間は肉体に閉じこめられた堕落した霊魂」という考えに真っ向から挑むキリスト教的人間観が表されています。

生神女による私たちの希望

 生神女は私たちとお生まれに於いても何ら変わりない普通の人です。この普通の人が聖神に満たされた時(「聖神があなたに臨み至高き者の力があなたを覆う(ルカ1:35)」)、神の母となる光栄を受け「常に福い」な者とされたことは(「今から後、代々の人は私を福いな女と呼ぶでしょう(ルカ1:48)」)、彼女同様普通の人である私たちも、天使による受胎告知に際しての彼女の従順(「私は主のはしためです。お言葉通りにこの身になりますように(ルカ1:38)」)にならい神の恵みを受け容れる時、天使たちにも勝る者となり得ることを意味します。私たちの肉体はもはや霊を罪にひきずりまわすものでなく、生神女の肉体と同じく神に奉仕する「義の武器(ロマ6:13)」となります。肉体と霊は神が与えた本来の調和を回復します。

カトリック教会の過ち

 ローマ・カトリック教会は、多くの内部の反対にもかかわらず、生神女マリヤの生まれを私たちとは全く異なった「無原罪懐胎」として教義化し(1854)、生神女に於ける私たちの福音的希望を台無しにしてしまいました。