§質問§
正教会、あまりに保守的では?

 結婚式についての難しすぎる規定、子どもが飽きてしまう長く難しい祈祷…、
 他教派は柔軟に対応して教勢を広げているのに、正教会は余りに保守的で、
 若い人はどんどん離れていってしまいます。どうにかなりませんか。
                   (ガッカリして余り参祷しない一信徒)

【お答えします】

他教派はどう見ているか
 あるキリスト教の大教派の聖職者の方に、「正教会も祈祷を簡略化したら」という声もあるとお話しすると、当の教派ではとっくにそうしているのに、「とんでもない!正教会までそんなことしたら一体キリスト教はどうなるんですか」と叱られました。
 「祈祷簡略化」の問題はさておき、伝道に資するためという大義名分で、結婚式を信徒以外にも行い、聖堂をコンサートの会場に提供し、信仰=教会の一致に未だ至らない他教派の信徒へも領聖を許し、人類愛や社会改革の名の下に政治的キャンペーンに奔走する、こういう教会の姿に深刻な危機感を感じている人たちが、正教会の「保守性」「伝統性」といったものに、何を期待しているかを示す良い例でしょう。

「公」なる教会とは
 毎主日の聖体礼儀で、私たち信徒はニケア・コンスタンチノープル信経を歌います。そこで告白されているように、私たちは「聖なる公なる使徒の教会」を信じます。この「公」(カトリック)という言葉は、聖使徒の時代から教会に伝えられた「いつでも、どこでも」ゆるぎのない正しさを意味し、たんに多くの人々が認めて受け入れていることではありません。一時的に圧倒的に多くの人々が認めたけれど、後の時代になって誤りが明らかになって否定されるような「正しさ」や「普遍性」ではありません。聖像(イコン)をかかげて祈ることは偶像崇拝であるという考えが一世を風靡し、文字通り一握りの勇気ある人たちの命がけの異議申し立てで、イコンの正しさが最終的に認められた聖像破壊論争(八〜九世紀)など、真の「公」性とはどのようなものかをよく示すものです。
 私たちはそのような「公」性を守り抜くのが真の教会であると信じています。「正しさ」はいつでも広く受け入れられるものではありません。特に信仰の場合「よく売れる」ことは「良さ」「正しさ」の指標ではありません。私たちは、教会の外面的発展よりむしろ「正しい信仰」の浸透を祈るべきでしょう。

「公」性の柱、聖伝
 この「公」性を守るために教会に伝えられているのが「聖伝」といわれるもので、旧新約聖書・七回の全地公会(325〜787の間に全教会の主教たちが集まり開催した会議)で定められた信仰告白(信経)及び教理・それに準ずる地方公会の決議・聖師父の教え・奉神礼・聖規則・聖像(イコン)を中心とした諸伝承です。(カリストス・ウェア主教"The Orthodox Church"に拠る)。古代の聖規則には直接現代に適用できないものもありますが、その精神は不変です。

立ち帰るべき指標を示す正教会
 世俗化したこの世と妥協してどんどん薄められてゆく「公」性に、いずれキリスト教界は深刻な反省を迫られるはずです。私たち正教徒は、諸教派がその時に立ち帰るべき真の「公」性を、たとえ少数でも生き生きと守ってゆく責務を負います。
 あなたも「保守性」を批判する前に御自身が教会(=領聖)に立帰り、「死んだ保守性」を「生きた保守性」に変容する「生ける石(ペートル前書2:5)」となりませんか。