§質問§

 自らも太平洋戦争に従軍し、家族や多くの友人を失ったものとして、正教会が「わ が国の天皇及び国をつかさどる者の為に」祈るのは、どうしても承服しかねます。正 教会が権力と結託した御用宗教のような気がしてしまいます。

<答え>

国家指導者への祈りは初代教会からの伝統

 指導者の誤りによって社会が大きな災厄に遭い、多くの人々の生命や財産が失われることはしばしばあります。戦争の悲惨とその後の混乱を体験された方々が、「天皇及び国を司(つかさど)る者」への祈りに、躓(つまづ)くのは無理のないことです。しかし、これは決して権力者の専制や横暴への「御用宗教」的な擁護追従ではありません。実は国家の指導者のために祈るのは初代教会にさかのぼるキリスト教の大切な伝統なのです。

指導者の正しい判断と正気を祈る

 初代教会は、福音伝道の自由と便宜を保障してくれるのが、当時世界を支配していたローマ帝国の統治による平和であることをよく承知していました。よく保たれた治安と秩序によって、教会は帝国内のどこへでも大した危険を感じることなく伝道できたのです。不幸にも何度か起きた迫害は、皇帝の狂気や不寛容な宗教政策、また、帝国の統治のゆるみによる無秩序な集団ヒステリーが原因でした。したがって教会は、皇帝や指導者たちが誤った判断をしないように、彼らの平安と正気を祈ったのです。

「迫害する者のために祈れ」の実践

 さらに、激しい迫害の渦中にあっても、教会と致命(殉教)者たちは自分たちを苦しめる皇帝や指導者のために祈ることをやめませんでした。それは、主の「敵を愛し、迫害する者のために祈れ(マトフェイ5:44)」という教えの文字通りの実践でもあったのです。

 指導者たちへの祈りのこの深い意義は、聖体礼儀で「常に福にして」が歌われる時司祭が祈る祈り(黙誦)に次のように的確にまとめられています。

「また、この霊智なる奉事を、・・・のため、わが国の天皇及び国を司る者のために、爾に献ず、主や、彼らに泰平の国政を賜え、我らも彼らの平和により、凡その敬虔と潔浄とをもって、恬静安然(安らかで平和なこと)にして生(いのち)をわたらんがためなり。」

 指導者たちの平和によって教会も平和にその使命を全うできます。また、天皇は「国民の象徴」ですから、ここでは国民全体の平安も同時に祈られているのです。

過ちがなかったわけではない

 ただ、キリスト教のどの教派も、多かれ少なかれ、「人間的な誤りや弱さ」により、また過酷な歴史的状況の中で教会を次世代へ伝えるためにやむを得ず、権力者の利益の代弁者になったり侵略のお先棒をかついだことがあるのは冷静率直に認めなければなりません。そして、再び間違うことのないよう熱心に祈るべきは当然です。