§質問§

 教会では私生活の祈りを決められた祈祷文で祈ることを勧めますが、自分の言葉で祈ってはいけないのですか?「求めよそうすれば与えられるであろう(ルカ11:9)と主もおっしゃっているようですが…。

<答え>

神様との「愛の関係」を忘れずに

 神様と私たちとの間柄は決して「水くさい」ものではなく、自分の願いや求めを祈るのは自然です。自分や愛する者が重病や大事故に適った時に、平癒や無事を神様に祈らないなら、かえって 神様は「こいつは本気て私を信じてるんだろうか?」とお感じになるでしょう。神様と私たちの関係は「愛」の関係であることさえ忘れなければ、何をどう願っても差し支えありません。

神様と「取引」する危険を避けるために

 ただ、神様と人の関係を取引の関係また法律的な権利、義務の関係と取り違え「この病気を治してくださったら、教会に献金や奉仕をしますからどうぞよろしく」また「こんな時のために忙しい中、毎週教会に通っているんだから助けてもらう権利があるでしょう」と祈ったら そこには「愛」はありません。それを念頭に、自分の祈りの言葉を振り返ってみて下さい。「ああ、ここでは神様と取り引きしようとしているな」とか「ここは神様に恩着せがましく権利を主張しているな」とすぐわかります。人は実に簡単に神様を自分の取引相手や使い走りにしてしまいます。自分の言葉で祈るとそういう逸脱の危険が大きいのです。その意味で、信仰の模範てある古代の聖師父たちから受け継いだ祈りに托して祈ることが勧められるのです。勿論、自分の言葉で祈ってはいけない訳ではありません。そもそも小祈祷書の祈りの大部分は聖師父たちの心から溢れ出たものです。

 *ただ「天主経(天にいます)」「聖三祝文(聖なる神)」「至聖三者祝文」「天の王」「常にさいわい」「至聖生神女讃歌(生神童貞女よ、喜べよ)」「十字架のトロパリ(主や爾の民を救い)」「復活のトロパリ(ハリトスス死より復活し)」「新たなるエルサレム」等は初代教会から「正しい祈り=<オルト・ドクサ>(オーソドックスの語源)」の伝統の中で厳密に守られてきた信仰表明の祈りでもありますから、しっかり覚えていつも祈りの中心に据えていなければなりません。

単純な祈りのよい点

 また 神様は「これらのものが、ことごとくあなた方に必要なことをご存じ=(マトフェイ6:32)」ですから、何か特別な祈願があり、小祈祷書などにピッタリの祈祷文が見つからないなら、むしろその願いや求めは胸に秘め、言葉では「主イイスス・ハリストス神の子や、我罪人を憐れみ給え(『イイススの祈り』)」や「主憐れめよ(『税吏の祈り』」という単純な祈りに徹して、それを繰り返すだけの方かよいと思います。神様へのこれほどの大きな信頼の表明は他にはありません。

*単純な祈りを絶えず祈る事については「『無名の巡礼者」あるロシヤ人巡礼者の手記:エンデルレ書店」をぜひお読み下さい。