§質問§

 息子(既洗)が結婚相手を見つけてきましたが、相手のお嬢さんが正教会の信者ではありません。信者でないと正教会では結婚式を教会でやってもらえないと聞いています。また、あまり熱心ではありませんが我が家は何代も前から正教会の家系ですし、何とか、相手に洗礼をうけてもらい教会で結婚式をさせたいのですが、どうすれば
よいでしょう。

<答え>

クリスチャンの結婚は「機密」

 教会を通じ主イイスス・ハリストスに結ばれた生活の中で、ハリストスが私たちを愛するように、互いに尽くし合い、信仰と希望と愛の生活を実現してゆこうという、お互いの自由な決意がクリスチャンの結婚の前提です。その自由な決意を祝福し恩寵によってしっかりした土台を与えるのが教会の結婚式であり、洗礼を受けた正教徒だけがゆるされる「機密」のひとつです。一方が信者であればよいというものではありません。正教会は融通が利かぬとか、宣教的効果を考えて未信者にも結婚式を許可すべきというのは無知な暴論です。宣教はある意味では、信仰のいきづくクリスチャン家庭をこの世にたくさん送り出すために行うのであって、この宣教の、目に見える成果こそが、教会全体が自分たち自身の喜びとして祝う結婚式です。逆ではありません。

「我が家の宗教だから」を捨てて下さい

 この基本的な理解がなく、「嫁に来たなら当然」とか、「我が家の宗教だから」とか、まして「墓を守る者が絶えないように」だとか、そんな発想で、相手に洗礼を勧めるのは、教会の機密への不敬であり、同時に、相手の人格への侮辱です。「わかったわよ、受けりゃいいんでしょ!」の捨てぜりふで洗礼を受け結婚式を挙げ、後は、教会と、洗礼を強要した者たちへの恨みの中で、教会に一切足を向けない、従ってほんとうの信仰の喜びへの道を閉ざされた気の毒な「正教徒」を増やしてはなりません。そのような家庭が幾つできても、教会を嫌悪しあざ笑う子ども達を増やすだけです

「信仰」を見直す機会に

 クリスチャンとして相手に洗礼を勧めるのは当然ですが、それは、ハリストスヘの「生きた」信仰による男女の結びつきこそが、家庭生活の愛の奥義を完全に開花させる唯一の道だからです。今からでも遅くありません。あなたが、もし「あまり熱心な信者でない」なら、息子さんと共にこの機会に教会に参祷・領聖し司祭に教えを乞いクリスチャンであることの意味を見直しましょう。率直に「我が家の信仰」の「現状」を息子さんと語り合い、相手のお嬢さんにも打ち明けて、ともに教会で学びましょう。それでも相手が応じなかったら、無理強いせず、結婚披露のみ行うことを二人に勧めましょう(神式・仏式・暖味な「キリスト教式」の式はきっぱり断らせましょう。相手も正教会式を断りましたよね)。息子さんやあなたたちの「生きた」信仰が、いつの日かお嫁さんを動かせるよう、根気よく愛をもって接し、主に祈り続けるほかはありません。