赦罪の晩課
ステファン内田圭一

(東京復活大聖堂教会の「ニコライ堂だより」から転載させていただきます。大斎の開始を告げる「赦罪の晩課」のレポート。
ステファンさんは、ニコライ堂で堂役奉仕をされる熱心な青年信徒)


 大斎に入った二月二十五日、午後五時から大聖堂にて赦罪の晩課が行われました。
祈祷中、聖堂内の全ての覆いは黒いものに替えられ、神品の祭服も黒いものに替えられました。聖エフレムの祝文が伏拝とともに祈られ、ダニイル府主教座下から「大斎は私たち人間がエデンの楽園から陥ちたことを記憶するものである。そして私たちは陥ちた楽園、神の国に還ることを忘れてはならない」との説教がありました。最後に、お互いにひれ伏して罪の赦しを請い、お互いに赦しあう「赦罪の祈祷」が府主教座下はじめ参祷者全員によって行われました。目の前の一人ひとりの兄姉に赦しを願い、赦し赦される時の涙、この涙こそ私たちの信仰を原点に再び立ち返らせるものだと感じました。私たちは共にあるのだということ、共に復活の命に与るために歩んでいるのだということに感謝いたします。そして萬有の王、主が私たちと共にあり、兄弟姉妹を守ってくださることに感謝いたします。

 乾酪の主日聖体礼儀終了後、多くの方の御奉仕により聖堂内のイコンの覆いは普段の金から黒いものに替えられ、赤いランパートは青いものに替えられました。照明が消された大聖堂は四十日の長い旅、私たちが復活祭へ向かうための節制と痛悔の旅を守るに相応しい船となったように思います。守られているということ。私たちが斎する時に忘れてはならないことだと思います。食を節制し、娯楽を控えること。それらは規則だというように考えれば大変に辛いことです。その辛さゆえに、斎を守ることができればそれを誇らしく思う。守ることができなければ罪を犯したように思う。あるいは開き直って、斎など信仰には必ずしも必要ではないものだ、と思うようになるかもしれません。しかし、神が人となったのは私たち人間への途方もない愛からであるといいます。それは規則のようなものではなかったし、必要なものですらなかったでしょう。

 「斎は規則ではありません」と神父様たちは繰り返し仰います。「斎は私たちを守る知恵、神からの愛の贈り物である」と。
また、正教の詩人であった鷲巣繁男氏は『聖なるものとその變容』で述べています。「《聖なるもの》の「形態」である教会に入った時、われわれはサイクルの中へ入ったのであって、そのサイクルの中に生きる者こそ信仰者だといふこと(中略)信者は単なる立会人ではない。それは見物者でもない。いささか極論すれば、信者は神の子と共に死し神の子と共によみがへるのである。主イイスス、神の子と共に私たちは荒野に旅をします。福音書によれば主はお一人で斎されたとあります。四人の福音記者は一緒にいたわけではありません。それは主が彼らに語ったから記されているのだということになります。なぜ主はそれをお弟子たちに、お弟子たちを通して私たちに語ったのでしょうか?それは私たちの旅、楽園から陥ちたこの世から再び楽園に向かう旅、復活に向かう大斎の旅に必ず主神は同伴しているよ、ということを示されたのに違いありません。