(正教ガイドシリーズ 平成12年4月)
〃教会〃ってどういうところ?

『教会は、人間が神様と一致し〃神化〃してゆくところです』

これまでご案内して参りましたように、教会は、神の招き(啓示)に応(こた)える人びとが、〃救いの恩寵〃に与かってハリストスと体合(本性的に結合)し、神様との一致を深めてゆく、つまり〃神化してゆく〃ところであります。もちろん教会は、神の啓示を正しく守り、すべての人びとにそれを伝え、信じる人を救いの恩寵に与からせ、〃地の塩、世の光〃として社会に貢献する等、さまざまな務めを持っておりますが、それらすべての務めは、ただ一つ〃すべての人がハリストスに在って一体となり神化してゆくため〃であって、それ以外の目的などと言うものは、なにも無いのです。

〃人間が神化する(神になる)〃と申しますと、いかにも人間が人間でなくなるかのように思われるかも知れませんが、決してそうではなく、聖書に『神はご自分にかたどって人を創造された』(創世記1の27)とあるように、もともと人間は〃神になるように召されている被造物〃(聖大ワシリイの言葉)でありますから、人間が神様と一致することーつまり神化は、〃人間が真に人間になる〃(教文館刊「東方キリスト教思想におけるキリスト」305頁)こと以外のなにものでもないのです。

すべての人びとの〃父〃であられる唯一の真の神(コリンフ前書8の6他)は、すべての人びとが救われて真理を知るように望んでおられ(テモヘイ前書2の4)、事実、すべての人びとを救ってくださるために、〃神子〃ご自身が、みずから地上に降(くだ)って籍身(せきしん)なさり、人間の神化を妨げている、すべての障害を取り除いてくださいました。そればかりではなく、人がそのお方―つまり神子・救世主イイスス.ハリストスを信じることはもとより(イオアン福音6の44)、信じて救いを求める人が、実際に救いに与かることも(同上3の5)、救いに与かって神化への道をたどることも(同上15の4・5)すべて〃救いの恩寵〃(神に離反している人びとを招いて、その罪を潔め、壊敗(かいはい)している本性を更新して神様との交わりが可能な状態にし、神化に必要な全てを施してくださる、慈愛に満ちた神の能力)によらなければなりませんが、神様は、それもすべて、全くなんの代償も求めず、無報酬で与えてくださっておられるのです(テモヘイ後書1の9)。

もっとも、神の恩寵は決して機械的強制的に人に作用するものではなく、あくまでも、その人自身の〃自由意志による人格的な応答〃(つまり自分力ら進んで積極的に恩寵を受け入れそれに従うこと黙示録3の2参照)力あって初めて作用するのである、ことを忘れてはなりません。これまでしばしば「救いの恩寵に与かる」という言葉を使って参りましたが、〃与かる〃というのは、そういう意味であります。

(正教ガイドシリーズ 平成12年5月)
〃教会〃ってどういうところ?

『教会は、自分の意志で神様のご恩寵に与(あず)かり、〃人間本来の在り方〃
を実現してゆくところです』


すでにご案内いたしましたように、もともと私たち人間は、造物主である真の神との〃人格的な交わり〃を通して、〃神化〃(神様と一致すること)してゆくことができるように、〃神の像と肖とによって造られ〃ていたのでした。ところが元祖アダムの陥罪(神の御旨(みこころ)に背いて、その〃本来在るべき在り方〃を破壊してしまったこと)以来、人類は皆、その堕落した状態に覆われ、みずからも神に離反しつづけて、ますます罪悪の深みに堕ち入っております。その堕落した状態から救い出し、罪によって壊敗(かいはい)した本性を新たにして、人間本来の在り方を回復し、〃神化の道〃を開いたのが、神子(かみこ)イイスス・ハリストスによる救いの恩寵でした。

教会は、そのことを世界中に伝え、その福音(よろこばしいしらせ)を信じる人びとが、神様の招きに応えて救いの恩寵に与かり、神化して行く〃場〃として、ハリストスによって創立されたものであり、この教会以外に、救いの恩寵に与かれるところは、どこにもございません。したがって、福音を聞き、神の導きに従ってハリストスに心を寄せるーつまり〃信じる〃ということは、とりもなおさず〃実際に教会において救いの恩寵に与(あず)かり、神化をめざす〃ことを意味しており、それは〃愛による人格的な交わり〃において実現してゆくのです。

つまり、救いのご恩寵は、すべて神様の限りない愛による、〃御旨のままなる恵みの働き〃でありますから、それに与かることを望む者も、自分の意志で、信頼と愛をもって、すなおにそのご恩寵に自分を委ね、それが実現するよう、みずからも努めるということなのです。たとえば、〃福音を信じる〃ということも、ハリストスが『わたしをお遣(つか)わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない』(イオアン福音6の44)とおっしゃっておられるように、正しい信仰は、すべてご恩寵によらなければなりません(ロマ書12の3)が、さりとて、ただ漫然と恩寵を待っていても、恩寵は決して作用しないでしょう。大切なことは、神様の愛の働きかけ(恩寵)に積極的に応えることーつまり自分の考えに固執しないで、謙虚に神様の照らしと教会の教えを受け入れ、それを堅く信じることであります。(以下次号)

(正教ガイドシリーズ 平成12年8月)
〃教会〃ってどういうところ?

『教会は、神様の御恩寵に与かって人間本来の在り方を実現してゆくところです』


〃人間本来の在り方〃と申しますのは、これまで既にご案内致しましたように、〃神にかたどって造られている人間〃としての在り方のことで、端的に申しますと「私たち人間が神様の御恩寵(神的生命)に与かって〃全面的に神に似た者となる〃(神学者・聖グリゴリイ)」ことを意味しております。しかもそれは決して〃人間を超えた者〃になるということではなく、かえってそれによって〃真に人間となる〃(J・メイェンドルフ「東方キリスト教思想におけるキリスト」305頁)のであって、たとえば人はだれでも善を喜び悪を嫌っておりますが、実際には自分が望む善は行なわず、望まない悪を行なっているのが実情です。 こうした状態から解放されて、望み通りに善に生き、善に上達してゆく人間本来の姿を回復するということなのです。

では〃真に人間となる〃ために、なぜ神様の御恩寵が必要なのでしょうか。ニュッサの主教・聖クリゴリイは、その雅歌講話の中で次のように教えております。「人間は、善のあらゆる実(みの)りから遠ざかって、不従順(神に逆らうこと)によって滅びをもたらす実(み)で一杯になった。(この実の名前が〃死をもたらす罪〃である)こうして人間は、より優れた生(せい)には死んで、その神的な生命を非理性的で獣のような生命と交換したのであった。人間は真の生命に死んだことで、(私たちが受け継いでいる)この死すべき生に陥ったように、逆に、この死すべき獣のような生命に死んだときに、永遠の生命の状態に移し置かれる。実に、罪に死んだ者になっていなければ至福の生命に入ることはできない。…善に死んだ者は悪のために生きるし、悪徳に死んでしまった者は徳に向かって再生する。」(大森正樹他訳・新世社刊。352頁)

人間が〃真の生命〃を失って、死の力に支配されている、はかない〃この世の生命〃に生きていることと、その状態からの救いについては、すでにこれまでお話ししておりますが、聖グリゴリイが教えている〃この死すべき獣のような生命に死んだときに云々〃というのは、いわゆる〃洗礼による再生〃(ロマ書6の4〜13)のことであり、それはすべて神様の御恩寵によることなのです。聖書に『善を行なう者はいない。一人もいない』(詩篇14の3、ロマ書3の12)とあるように、この世の生命によって生きているかぎり、人はだれも善に生きることはできません。聖グリゴリイが言っているように、私たち人間はすでに〃善に生きる真の命を失っている〃のです。したがって〃真の人間〃つまり〃善に生きる者〃となるためには、万善の宝蔵なる者、生命を賜うの主(正教会祝文)であられる真の神によらなければならないのです。

主イイスス・ハリストスはおっしゃっておられます。『ぶどうの枝が木に繋(つな)がっていなければ実を結ぶことができないように、あなたがたも私に繋がっていなければ実を結ぶことはできない。…私から離れては、あなたがたは何もできないからである…云々』(イオアン福音15の4・5)と。〃私から離れては、あなた方は何もできない〃というのは、前に申しました〃神に力たどって造られた人間としての在り方〃のことで、端的に申しますと〃善に生きること〃を指します。また〃ハリストスに繋がっている〃というのは、ハリストスが『私は天から降(くだ)って来た生きたパンである。…私の肉を食べ、私の血を飲む者は私の内におり、私もその人の内にいる。生きておられる父が私をお遣わしになり、私が父によって生きているように、私を食べる者も私によって生きる』(イオアン福音6の51・56・57)とおっしゃっておられるように、具体的には、ハリストスがパンとブドウ酒の形で与えてくださる、彼の尊体(そんたい)・尊血(そんけつ)―つまり御聖体(マトフェイ福音26の26〜28)を領食する(いただく)ことによる、ハリストスとの体合(一体となること)を指しており、それはまた、ハリストスが『父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。…私が彼らの内におり、あなたが私の内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです』(イオアン福音17の21・23)と、神父(かみちち)に祈られたことの実現を目指すものであります。

こうして人びとがハリストスと体合し、ハリストスによって皆一体となり(本性的に統一されて)神の光栄に与かり(あらゆる善に満たされた者となり)、神を賛美することこそ、人間本来の在るべき姿であり、人類創造の目的の成就に他なりません。(修院長ミハイル著・小野ペトル訳「イオアン福音書注解」下358頁)。しかもそれはすべて、人が〃水と聖神とによる洗礼〃を受けて、この世に属する者から、神の国に属する者に生まれ変わることから出発し(イオアン福音3の5)、神聖神(かみせいしん)の導きに従って(ガラテヤ書5の16〜25)、信仰と(同書3の26〜28)愛とによって(イオアン第一書3の23〜24他)、新しい生き方(エフェス書4の23〜5の5)を保ち続けて行くことによってのみ近付いて行けるのです。